挑戦記Vol. ⑧:金曜日の学び①

金曜日に学んだこと、待てない間、プロセスの開示。

待てない間

金曜日にしたことは、
Colorbathの関わる団体の年間を通じた活動の
WS(ワークショップ)のファシリ。

大人が大勢いる、WSの時間も限られている、
上での、ほぼオンラインのWS。

ありのままの私で、参加者皆さんの胸を借りる!という気持ちを持つ一方、
限られた時間の中で、密度の高い時間にしたい、
活動全体が一歩進み易くなるような時間になったらな、、、、
それなら、
発表タイムとその後の質問・ディスカッションタイムも充実させたい!
という気持ちがありました。

WSの発表に関しては、事前準備を発表者方々とできたので、
かなり、楽しく、チャットもかなり動く発表に。

そして、今日の学びのは、この発表後の、質問タイムに。


そこには、待てない間がありました。


「どうですか?」
の一言を聞いた後の、沈黙。


待てないんです。


そもそも、「どうですか?」だけ聞く、ということが出来ない。
あれこれ、付け加えちゃう。
「同じチームの人はどう思います?違うチームの人はどう思います?」
とか。

「みんな思っていたことをシェアしてほし」くて、私はそう言ったけれど、言葉を付け加えれば付け加えるほど、「私が問うたこと」に沿ってみんな考え直すのです。発表を聞いて思ったことからはどんどんずれていくし、思っていたことがあっても私の問うたことに触れるor沿うものじゃないと話にくくなる。

だから、シンプルに「どうですか?」と聞いて、待てばよくて。
そして、そうしたら、私の「思っていたことのシェア」という目的の達成もきっとできたのです。

そこで、思っていることがなくて、なにも質問や会話が生まれなかった時は、決して私が悪いとか、ファシリの失敗とか、WSの失敗とか、言うわけではなく、
「ああ、質問、なにもでなかった。」から生まれる各々(参加者、私、運営側の皆)の次の動きへつながっていくのだと思うのです。


「待てない間を、待つ。」
それは大人に対しても、子どもに対しても同じこと。
(もしかしたら、自分に対しても?)

変にその場を技術で盛り上がらせて、即席の”いい場”にするのではなく、
”その場”にあるものを、”その場”で生まれたものを、受け取ると、各々が動く機会になる。


違和感や失敗、悔しさ、もどかしさを、ごまかさずに受け取ること。

待てない間を待つ話でした。


余談①

この話に加えて、Zoomの最後、ミーティングを閉じるタイミングについても、学びがありました。

切るタイミングって、難しいなといつも思っていて、
大抵「ちょっと遅かったな。みんないつ切るの?って顔していたな…
もう少し早く切ろう…」と一人で思うのです。
しかし、「みんなが抜けるのを待つ」「抜けれてなくて困ってそうなときに待機室に戻してあげる」をすると、実は話しがしたい人が話しをできたり、するのだ、出たい人は普通に出ていくし、という話をもらいました。

うーーむ。確かに。

わたしは、Zoomのイベントの最後にいつも「自分で退室するの?この部屋閉じてくれるの?」という葛藤を得ていて。それを皆に与えない方がいいと思い、「ばいばーい」の声が終わりかけた時に切ることが良いことだと思っていました。けれど、みんなに軽く退室を促しつつ、切らずに待つ方が、その場や、他の人にとってはよかった様子。

私は「退出」ボタンが非常にいつだって押しづらい人だから、いつも「ミーティングを終了」を押してほしいような気がしていた理由がわかった気がした。それはとっても個人的なおもいだったし、自分が出たかったら出る、残りたかったら残る、が、自分で怖がらずに選べたらいいだけだったな、と。

私が怖いから、安心するために、
そうしてほしかったことを人にするのではなく、
私が自分で嬉しくてしたいから、喜びを分かつために、人になにかする
方がいいなと思いました。

自分がよかれと思ってやっていることは、案外他の人からみたら、そうじゃないほうが良いことだったりする、という話。


(私、以前、Zoomを退出した後に、どうしても聞きたいことがあって、もう一回同じリンクに入り直してみて、まだ話していた人に聞けたって経験があったなと思って。その時は、終了時間のあとにもう少しこの場で話したい人は話そうか〜という流れがあったから、そうだったけれど。でも、あの時、自分で退出を選び、自分で再入室を選べたの、よかったなって思っている。な、という余談の余談)


余談②

この待つって動作。できてるときもあるんだよなあ。
それは以前書いたSOKOAGE CAMPで行う、「チェックイン」「チェックアウト」の時間。
あれ、
「エクストリームリーみんながみんなと自分自身を待っている時間」。

問いかけは「今の自分、どう?」で、
みんなそれぞれたっぷり時間をかけて、あるいはかけずに、
その時の感情や、今日考えていたこと、これまでのこと、これからのこと、気づいたこと、楽しみなこと、不安、心配、喜び……
をそれぞれのタイミングで共有するし、してくれる。

あの時間、自分の存在が本当に許された感じがして、とっても好きだったのだけれど、
あれは自分で自分という存在を、否定も批判もせずに、受け止めてた、つまり自分で自分の存在を許していたから、うれしくて、好きだったんだなあ。

そして、これは「仕事」とか、「WS」とか、それっぽい名前が着いたりして、意味のある時間にしなくちゃ…!とか気負ってしまった時に、「待てなくなる」ということかもしれない。

いや、なにかしなくちゃ、なにかできる、なにかできたはずだ…!とその言葉に対して私が思ってしまっているだけというか。
なにかしない、できない、できたはずがないって、頑張ってなさそうだし、頑張ってない自分・前向きじゃない自分なんて組織とか、団体とかに存在しちゃ迷惑なきがする…ってか、そうしてないといつか見放される!!!
と、思っているから、焦るのかな、とか。

更にというか、自分の”意識してない”怖さげの回避行動が発動するとき、
待てなくなる。

そして、それが「待てていない」ことにも気が付かないし、むしろ良いと思ってしてしまっている 。
まじかー。

少しずつ、この回避行動を気づいていく、過程にいるのかもしれない。


ああ、私は、自分をじぶんとして認めて在ることの心地良さを知りつつ、怖いものから逃げることで培ってきた心地よさを手放していけるタイミングにいるのだな。



金曜日の学びの2つ目は、また、明日。


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