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「思考のOS」への気づきからの「自己肯定感」

「スピノザ」という哲学者をご存知でしょうか。

あまり聞いた事のない方が多いのではないかと思うのですが、数々の業績を残した天才物理学者「アインシュタイン」にも影響を与えた、実はすごい人なんです。

アインシュタインは科学の教えるところと聖書の記述との間の矛盾に気付き悩み、宗教には否定的だったそうです。

そのアインシュタインが「私はスピノザの神を信じる」と言ったとか。あのアインシュタインが唯一賛同した神の概念、スピノザの「汎神論」、興味深いと思いませんか?

「汎神論」とは?宗教なのか、哲学なのか、はたまたスピリチュアル的な何かなのか…

私がスピノザを知ったきっかけは、「仏教もキリスト教も嘘のように感じてしまう…もっと納得できる教えに出会うことはできないだろうか」とネットを検索し、得られた情報からでした。

スピノザの著作である『エチカ』という本にその教えが集約されているらしいのですが…難しすぎて自分にはよくわからない、というのが正直なところです(^_^;)

大した教養もなく、読解力にも乏しい…それでも私はスピノザの教えを理解したいのです。直観ですが、スピノザの哲学には「自分が求める真理」に近づくヒントがあると思えてなりません。

自分自身が納得できない世界で、納得できないままに生きていくのはしんどい事です。だから私は「真理の探求」をあきらめません。たとえ読解力不足でも、賢人の教えにあやかりたい…

そんな未熟な自分でもスピノザの教えを享受できてしまう、すごい「解説」に出会うことができました。それは、NHKで放送されている「100分 de 名著」という番組です。毎週様々な名著を100分で読み解いていく番組ですが、2018年に放送されたスピノザ『エチカ』の特集回において、哲学者の國分功一郎さんがゲスト講師としてとてもわかりやすく『エチカ』を読み解いてくださいました。

NHK出版からテキストとしての冊子も出版されており、当時テレビとテキストを拝見し、あたかもスピノザを理解できたかのような気になれました。とても分かりやすく興味深い内容で多くの気づきがあったのですが、「理解した」とは言い切れないのが自分で、「わかった気になれた」といったところでしょうか(^^;)


当時出版されたテキストに新たな一章を書き加え再編されたものが書籍として発売されているのですが、そちらもとてもわかりやすく、「哲学を学ぶ」という感覚ではなく、「スピノザさんの教えに学ぶ」といった感じの、親しみやすい内容となっています。


私たちはまだ、「自由」を知らない――。
覆される常識の先に、ありえたかもしれないもうひとつの世界が浮かび上がる。
気鋭の哲学者による、心揺さぶる倫理学(エチカ)入門。

はじめてのスピノザ 自由へのエチカhttps://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000346995

★現代人の「思考のOS」を書き換えるスピノザ哲学のエッセンス★

□すべての個体はそれぞれに完全である。
□善悪は物事の組み合わせで決まる。
□「力」こそ物の本質である。
□自殺や拒食の原因は人の内側にはない。
□一人ひとりの自由が社会の安定につながる。
□必然性に従うことこそ自由である。
□自由な意志など存在しない。
□意志は行為を一元的に決定しない。
□真理の外側に真理の基準はない。
□新しい主体のあり方が真理の真理性を支える。

國分さんの解説の画期的なところは、スピノザ哲学を「思考のOS」になぞらえて表現されていることです。スピノザの教えをむずかしい学問のままにして他人事で終わらせない、身近な教えとして自分事に落とし込めるような、わかりやすい言葉で説明してくださるところがありがたいのです。哲学は学問として学ぶだけのものではなく、身近なシーンで実践できるものであると気づかせていただけたように思いました。

書籍の「おわりに」に記された文章を引用させていただきます。

 哲学が研究の場に閉じ込められるようなことは断じてあってはなりません。哲学を専門家が独占するようなことも断じてあってはなりません。哲学は万人のためのものです。スピノザは世の中の人がもっと自由に生きられるようにと願って『エチカ』を書いたのです。

 ここまで勉強してきた概念が皆さんを少しでも自由にしてくれることを私も心から願っています。

この本からいかに正しい学問を学ぶかという事よりも、この本を実用書のように使い倒し、その教えを生活に落とし込み、より自由に生きるためのヒントとできたらそれでよいのではないかと私は解釈しました。


「思考のOS」って何のこと?

「OS」とは、パソコンやスマホに入っている「オペレーティングシステム」の略であり、ソフトウェアとハードウェアを仲介する役割を持ったシステムの事です。

スマホを使う方なら、「Android」と「iOS」の二種類のOSがあることはご存知かと思います。最近ではclubhouse(クラブハウス)というアプリが流行しましたが、iOS(iPhone)ユーザーしか使えないアプリだったために残念な感じになったAndroidユーザーの方も多いのではないかと思います。

このように、OSが違うと使えるアプリも違います。

『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』から、「はじめに」に記された文章を引用させていただきます。

 私はスピノザ哲学を講じる際、学生に向けて、よくこんなたとえ話をします。

――たくさんの哲学者がいて、たくさんの哲学がある。それらをそれぞれ、スマホやパソコンのアプリとして考えることができる。ある哲学を勉強して理解すれば、すなわち、そのアプリをあなたたちの頭の中に入れれば、それが動いていろいろなことを教えてくれる。ところが、スピノザ哲学の場合はうまくそうならない。なぜかというと、スピノザの場合、OSが違うからだ。頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない……。

世の中のいろいろな「理解できない事」を「ソフトウェア」に、自分の頭を「ハードウェア」に例えてみると、理解できないのは相手と自分の「思考のOS」が違っているから、とも例えられるかもしれません。

周りの人の考えが理解できず孤独を感じる事がありますが、それもOSの話になぞらえると、iPhoneユーザーが多い場では、Androidユーザーが使えるアプリが少なく不便な状況になる、というイメージがよく似ているなと思いました。

自分の場合は、はじめからスピノザ哲学が作動するような「思考のOS」で生きてきた実感があります。この本を読んで、「自分は、自分と異なるOSで世界を見ている人との関係に障害を感じていた」という気づきがあったのです。

Windowsのプログラムを読み解けなくてもパソコンは便利に使えるし、iOSの仕組みを理解しなくても、たくさんの人が実際にiPhoneを使っています。おかげで確実に社会は便利になりました。

ここでお話ししていることは、いかにスピノザを理解するかということよりも、「思考のOSの違い」が実際の生活にどのような影響を与えているのかということなのです。

自分が「スピノザ哲学が作動するOSで世界を見ている」という気づきを得たことで何よりうれしかった変化は、おそらく同じOSで世界を見ていると思える方に次々と出会えるようになった事です。そこに多くの共感や発見があり、人生がアップデートした実感がありました。

スピノザを理解する事は難しいですが、「スピノザ哲学というアプリ」、そして「それを作動させる思考のOS」があると知ることで、世界をこれまでとは違う角度から味わい直す事ができるのは確かだと思います。

独立研究者、著作家、パブリックスピーカーである山口周さんの著書『ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式』にも、スピノザの教えを実践するヒントがありそうです。

「スピノザ哲学を作動させるOS」は何がどう違うのか?

『エチカ』に記されている「コナトゥス」という概念をキーに考えてみたいと思います。researchmapというWebサービスが提供する『つながるコンテンツ』という記事にも、國分巧一朗さんのお話が掲載されていましたので一部引用してご紹介したいと思います。

スピノザによれば、〝よく生きる〟とは自分を貫く法則に従って生きることを意味します。たとえば僕の心身にはそれなりの法則がある。言い換えると、心身を条件付けている必然性があるということですね。その必然性をうまく直観して生きていくことが重要なんですね。スピノザはそれを「コナトゥスに従って生きる」とも表現しています。コナトゥスとは個体が個体であろうとし続ける力・傾向のことを意味します。

「コナトゥス」は、個体をいまある状態に維持しようとして働く力、「自分の存在を維持しようとする力」のことを指すのです。

ここでいう「存在」というのが、周囲の人と自分の感じ方に違和感を感じ、自分にとっての生きづらさとなってきた部分なのです。おそらく「思考のOSの違い」とは、「存在の捉え方の違い」なのではないかなと、私は思います。

「女らしく」とか、「子どもだから」とか、「おとななのに」とか…そういう事を言われるのが大嫌いな自分でした。「形ある存在」としての自分を「それこそがその人である」と決めつけられることにがまんがならない感覚、その自分の感覚こそが、「コナトゥスに従って生きようとしてきた自分」として納得できたのです。

私にとって「存在」とは、今ある自分自身の姿形や立場とは関係なく、自分の芯の部分から湧き上がってくる自分固有の「欲求」とか「信念」のような、形のないものとして感じていました。

「私が存在している」のではなく、「存在が私している」という感覚。これがほんとに、伝えようのない、言葉にできない、「概念」というか…

スピノザ哲学はそれを体系立てて説明してくれる、なんかすごい学問である、そんなイメージをもちました(^^;)

「神」という概念

スピノザ哲学が作動するかしないかの「思考のOS」の大きな違いは、「神という概念の捉え方の違い」でもあると思います。

以下に『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』から引用します。

「神」という言葉を聞くと、宗教的なものを思い起こしてしまうことが多いと思います。ですが、スピノザの「神即自然」の考え方はむしろ自然科学的です。宇宙のような存在を神と呼んでいるのです。

 このような神の概念は、意志をもって人間に裁きを下す神というイメージには合致しません。彼の思想が無神論と言われた理由はここにあります。

これまでの自分が「宗教」に感じてきた違和感、それを当たり前に受け入れる周囲になじめず感じてきた孤独感が解消された部分です。

はっきり言って私にはスピノザ哲学は難しく、國分さんが伝えたい事も、きっとまだまだ理解できていません。ですが、ニュアンスとして伝わってくる何かがあって、「自分はスピノザの神を信じている」と確信でき、自分にも学びたい何か、教えを請いたい何かがあるという希望を感じられました。

…実体とは実際に存在しているもののことです。神が実体であるとは、神が唯一の実体であり、神だけが実際に存在しているということを意味しています。

 実際に存在しているのが神だけだとすると、私たちはどうなってしまうのでしょうか。

 私たちは神という実体の変状であるというのがスピノザの答えです。つまり、神の一部が、一定の形態と性質を帯びて発生するのが個物であるわけです。

 個物はそうやって生じる変状ですから、条件が変われば消えていきます。しかし個物は消えても、実体は消えません。

私にとって、「自分をいかによく見せるか」ということよりも、「いかに自分の内面から湧き上がるものを正しく表現するか」ということが人生で最も大切に感じてきたことです。

…個物が、神が存在するにあたっての様式であるとしたら、それぞれの個物はそれぞれの仕方で、神が存在したり作用したりする力を表現していると考えることができます。

スピノザ哲学を知ることができたおかげで、自分が実践してきた「コナトゥスに従って生きる」という生き方が、「自分という個体に現れる神を最大限に表現する努力」だったと思えて、自分の存在を宇宙の一部として肯定する、「自己肯定感」を感じられるようになったのです。

言葉にすることが難しいのですが…スピノザさんと國分さんの言葉もお借りしつつ、私の言葉でまとめたいと思います。

「コナトゥスに従って生きる」ということは、自分が最大限に発揮される状態を実験しながら生きていくこと。

表現するために学び、実験するために誰かとつながる。それの繰り返しから立ち現れてくるそれぞれの個体のあり方が、宇宙の真理(神)を現していく、そんなイメージを持って生きています。

だからすべての存在は何かによって否定されることがない。否定されて居心地の悪い思いをしている誰かがいるならば、居心地のよい生き方を求める事をおすすめしたい。私はそれを何より伝えたいです。

…以上、伝えきれないもどかしさ、わかりきれないもどかしさを解消するべく、日々学び続けている未熟な私からお送りしました(^_^;)

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