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偶然性について

今でも一般に使われているのか分からないのだけれど、「無造作ヘア」という単語が、すこし前にありましたよね。ガチガチキッチリに髪の毛をセットするのではなく、クシャッと揉んだり、ふんわり立ち上げたり、ウェーブをかけたりして、いかにもはじめからこういう髪型でしたよーみたいに自然にみせるヘアセットのことです。
わざわざ「無造作ヘア」という単語を用いらなくても、ヘアセットってそういうもん、みたいな観念の根本としてものが、わたしたちの中にあるかも分からない。

しかし、よくよく考えてみれば「無造作ヘア」って意味不明じゃないだろうか。作為的に自分のヘアをセットするのが、そもそものヘアセットという行為で、それは必然性の土地に存在しているはずなのに、なぜか偶然性の気概を帯びているのだ。みんな頑張って無造作を作ってる、そんなおかしな話があるか。

思えばわたしたち人間は、連綿と続いてきたこの歴史の中で、「偶然性」というものに、傾倒というか、執着というか、なにか憧れのような情念を持ち続けてきたように思える。

わたしたちが自然を美しいと賛美するのも、わたしたち人間にはなかなか真似できない偶然性を帯びた形態や色彩を、自然が作り上げているからで、それはいま流行っているAIアートについてだって言えることだ。昨今AIの描く(というか生成する)絵画や映像作品が、至るところで散見・評価されている。悔しいけれど、素人の僕の目にも美しいと思えてしまうような作品がいくつもある。
おそらく人間には「こうしたら偏りが生まれてしまうんじゃないか」、「不自然になってしまうんじゃないか」というようなある種の恐怖心のようなものがあって、それが人間の偶然性のある無作為的創作活動を阻んでいるのではないか。
ところが、自然やAIはその恐怖心を持ち合わせていない。だからわたしたちは自然を美しいと崇拝するし、AIに対して対抗心や焦燥感を覚える。

この「偶然性への執念」というのは、人類の中でもとりわけわたしたち日本人が有しているように思える。日本人の精神の源泉には「わび・さび」が厳存していて、それは失われゆくものや存在が定まりきらないものに対して抱かれる無常観的な哀愁の念ともいえるだろう。この「わび・さび」の精神こそが、偶然性の本質ではないだろうか。

じぶんの話で申し訳ないのだが、最近、九鬼周造の名著である『偶然性の問題』を読んでいる。まじでムズすぎて何言ってるのかほとんど分からないのだが、その本の中で「原始偶然」という概念が設けられている。原始偶然とはもうそれ以上遡ることのできない偶然のことだと九鬼は述べる。
自然や動植物や世界自体が、あるいはわたしたち実存が、あのような形やそのような形でもありえたのに、このような形で存在するのはなぜか。そもそもそれらが全く存在しないこともありえたのに存在するのはなぜか。この問いを最果てまで遡及したときに見出す原始偶然の問題こそが、実存の無根拠性、非必然性の問題に他ならない。そしてこの問題は九鬼だけではなくて、わたしたち全ての実存の問題なのだ。

原始偶然は離接の一つに過ぎない。だが、離接の一つだと考えることはその背後に別の対項の存在を想定することであり、かつ離接全体を想定するということでもある。
九鬼はこの離接全体のことを絶対的形而上的必然と呼んだ。さらに九鬼は、原始偶然は絶対的形而上的必然(全体)に対する一部分であるが、その部分には絶対的形而上的必然(全体)の全てが含まれており、それはもはや絶対的形而上的必然(全体)と考えられるのだという。九鬼にとって原始偶然と絶対的形而上的必然とはイコールの関係で結ばれるものであり、九鬼はこの「原始偶然=絶対的形而上的必然」を形而上的絶対者と名付けた。
形而上的絶対者とは例えるならばコインのようなもので、絶対的形而上的必然と原始偶然はコインの表と裏をそれぞれ担っている。つまり、形而上的絶対者は単なる必然でも偶然でもなく、「必然一偶然者」という相反する性格を備えたものなのだ。ぼくが以前から定説としていた「必然vs偶然」という二項対立が、根本的に違っていたのだ。

この「存在か非存在かをも確定する絶対者としての偶然性」という心理こそが、わたしたちが偶然性に魅了される所以だとぼくは思える。わたしたちは自然やAIに現れる偶然性を通して、わたしたち実存が実存たるその源泉に厳存する絶対者を見出していたのだ。
偶然性とは、人間もとい実存の母であり神だった。

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