心底と言うとき急に深くなるこころに沈めたし観覧車(大森静佳)

心底と言うとき急に深くなるこころに沈めたし観覧車
(大森静佳『カミーユ』書肆侃侃房、2018年)

 ほんとうに『カミーユ』の破壊力はすごい。一人だけ5トンのバットでホームラン連発しているみたいだ、大森静佳という歌人は。僕がピッチャーだったら逆に笑っちゃうくらい得点を重ねてくる。この歌も場外だ。
 日常語と化してしまっているけれど、その正体は呪文である、という言葉はいくらもある。ふつうに会話中に現れるその呪文は、誰もそうと気づかないうちに発動しているのかもしれない。「メラ」って唱えたら火の玉が噴出するのと同じ原理で(ドラクエです)。
 「心底」はそういう呪文の一つである、との理解がこの歌を生んでいる。よく考えてみるとたしかに慄然とする語だ。「心」に「底」があるというのか。膨大な感情や思考や記憶が渦巻く心に、海底か、もっと混濁しているとすれば沼底のように光の差さない「底」が? いったい何が沈殿しているのか、どんな魚がうごめいているのか、ちょっと怖い。
 たぶん(心底、)って思っているうちはまだこういうイメージは漠然とした感触でしか捉えられないけど、「心底、」と発話された瞬間に呪文は具象化する。こころは急に「底」の概念を獲得し、その深度をおそろしく増すのだろう。

 ここまではいい。いろんな人が読んでも、たぶんそこまで大きく解釈が異なるような歌ではないと思う。ほんとうに息を呑むのはこの後、「観覧車」だ。
 か、観覧車? 沼に!? でけーーー!! ってなる。この歌が穴埋めだとして、

心底と言うとき急に深くなるこころに沈めたし○○○

 すごく深いってことを伝えたいんだからでかいものを入れりゃいいんだけど、でかけりゃいいってもんでもないんですよね。万里の長城とか木星とかアンドロメダ星雲とかここで言っても「いや、嘘じゃん笑」ってなって終わりなのに対し、観覧車には謎の納得感がある。ちょうど「沼に沈められる最大サイズの物体」っぽい感じ、があるのだ。現実に、地球上で最大の沼なら観覧車であればギリ入るかも、という論理的な判断がされているのかもしれない。
 同時に、そういう論理の外でしっくりこさせる力も確かに働いており、それこそが納得感の造成にもっとも貢献しているように思う。たとえば同じく論理的には沼に入りそうな最大サイズとして「スカイツリー」とか「姫路城」もあるんだけど、それだとなんとなくしっくりこない。そいつらなら沼に浸かったって別に余裕なんじゃないの的引っ掛かりが生まれてしまうためだ。これはなんなのか。
 おそらくこれは、短歌ひいてはさまざまな表現が読者の心中に培ってきたあらゆる言葉のイメージ座標において、沼的「何かをゆっくりと沈める場所」という「地」と観覧車という「図」が100点に近い距離感に置かれているからではないだろうか。それは観覧車が廃墟という冥界に隣接していることによるのかもしれない(スカイツリーや姫路城にはない「ボロくなりがち」という共有像もある)し、形状的に泥をいい感じに掬い上げてボトボト落としてそうな印象によるのかもしれない。現実に吹き溜まりに浮かんでがちな「自転車」の類似品であることも関係あるのかも(「千と千尋の神隠し」でも、沼的存在から出てくるゴミの主役として自転車が選択されてたし)。ともかくそのような、謎の引力に基づく「沼」との相性のよさが、観覧車という選択に納得感を与えている、のではないだろうか。このことはもっとじっくり考えたいなぁ。針の穴に糸を通すようなコントロールで大砲級の爆発を味わわせてくれるような、なんかよくわかんないけどすごい歌でした。

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