短歌の評を書こうと思います。

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青松輝『4』評

◆最近、話し方が先輩たちそっくりに変わってきた職場の新卒会社員 ◆FUNKY MONKEY BABYSの楽曲『LOVE SONG』の歌詞(抜粋) ◆匿名掲示板(VIP)に書き込まれた、別の板(なんJ)における言葉の使い方に関する批判  会社員に、FUNKY MONKEY BABYSに、なんJ民に特有の問題ではない。  発するのが何者であろうとわたしたちの言葉は不自由であり、何かを話しているようで何も話せていない事態が頻繁に起こる。言葉はわたしたちをわたしたちではないもの

    • 自作「居酒屋から」~「口実」評

      ① 居酒屋から(50首) https://twitter.com/mizunomi777/status/1091750237696253952?s=20  2018年の笹井宏之賞に応募した50首連作。  このころ服部真里子さんが講師をつとめていたNHK文化センターの短歌講座に通っていたので、その宿題として詠んだ歌がほとんど入っている。たとえば〈なにそのリュック コンセントじゃん笑 けれどもう化粧のような青梅の夕べ〉という歌は、一首をお弁当箱にたとえていた服部さんが、バラン(

      • 評ではない文章(さいきん考えていること)

         短歌の評以外の文章を書くのは気が進まない。  しかしこうなってくると(実はすべてにおいてそうなのかもしれないが)、書かないことはあえて書かないことに近い。短歌は(諸説あるが、今のところ僕が考えるかぎり)つまるところ人間という存在と切り離すことのできないもので、人間は人間社会から絶えず影響を与え続けられるものである。したがって、短歌を読むためには人間社会に関する最低限の理解を持っていなくてはいけない。短歌と人間社会の接続を認めないためには、明らかにあらわれている何らかをあえ

        • いない犬が散歩を嫌がるけど外に出る  いない犬だから(乾遥香)

          いない犬が散歩を嫌がるけど外に出る  いない犬だから 乾遥香「永遠考」(『ぬばたま 第四号』、2019年)  「犬」はいないのだろうか?  歌によると、犬はいない。「いる犬」が散歩を嫌がっているなら外に出ることをためらいもするけれど、「いない犬」なら何もないので外に出る。そうです、この話している人が外に出ただけです。  いや、でも「犬」、いるよね?  だからいないって言ってるでしょ、と諭されたら返す言葉はない。いるんなら連れてきてくれよ、と詰められれば、とんでもない、いな

        青松輝『4』評

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          ジュンク堂でおはようのキス 信じてる 水だけで生き延びる物語(初谷むい)

          ジュンク堂でおはようのキス 信じてる 水だけで生き延びる物語 初谷むい「おはよ、ジュンク堂でキス、キスだよ。」(『ぬばたま 創刊号』、2017年)  朝、ジュンク堂で待ち合わせてキスと読んでもいいんだけど、「おはようのキス」は寝起きにするイメージがある。ということは、ジュンク堂で寝て、ジュンク堂で目を覚ましたのだろうか。怖くなるほどたくさん収められている、今後も大半を読まないであろう本に囲まれながら、なかば寝惚けつつ口付けをする。恍惚にシュールな奇妙さがブレンドされた、とて

          ジュンク堂でおはようのキス 信じてる 水だけで生き延びる物語(初谷むい)

          てふてふのてんぷらあげむとうきたてば蝶蝶はあぶらはじきてまばゆ(渡辺松男)

          てふてふのてんぷらあげむとうきたてば蝶蝶はあぶらはじきてまばゆ 渡辺松男『蝶』(ながらみ書房、2011年)  蝶々をてんぷらに揚げようという発想には納得感がある。  蝶々をてんぷらにする文化が、日本のどこかにあるのかは知らない。念のためグーグルで検索してみたところ「蝶々」というハンドルネームの人がてんぷら屋さんを讃えている口コミが出てきた程度なので、ないか、あるとしても一般的ではないのだろう。わたしも、見たことも食べたこともない(ある人がいたらご一報ください)。

          てふてふのてんぷらあげむとうきたてば蝶蝶はあぶらはじきてまばゆ(渡辺松男)

          輪ゴム噛んだらだんだん味がするようなそんな散歩で続けた未来(武田穂佳)

          輪ゴム噛んだらだんだん味がするようなそんな散歩で続けた未来 武田穂佳「家族の休日」(『かばん』2019年9月号掲載)  輪ゴムくらい好きに噛めばいいと思うけど、あんま短歌の冒頭で出会うとは予想していなかったな〜〜 複数の人の作品が載っている冊子に、読み進めるたびに誰かがなにかを言っているような、混みあった路地のような印象をわたしは抱いていて、とすれば連作の一首目はその路地ですれ違う人の「あ、どうも」に次ぐ一言目ということになる。 あ、どうも。輪ゴム噛んだら……   急に

          輪ゴム噛んだらだんだん味がするようなそんな散歩で続けた未来(武田穂佳)

          矛盾がつくるミラクル――ラップってなんなのかシリーズ② ラップバトル編

           ①はこちら。ラップがイズム・リズム・ライムの3つの要素において同時にプレイする表現であり、ラップバトルはその3つのルールで競い合うスポーツであることを確認した。 ルールたちの相互干渉:それが矛盾するとき 3つのルールは相互に干渉し、それはしばしば矛盾という形で現れる。ノリをよくしようとすると中身のないラップになったり、言いたいことを言ってると韻が踏めなくなったり、長すぎる韻がリズムを邪魔したり、という事象がしばしば起こるのである。わかりやすい例を見てみよう。  この

          矛盾がつくるミラクル――ラップってなんなのかシリーズ② ラップバトル編

          ラップが弾丸じゃなくて毒矢であることについて──ラップってなんなのかシリーズ① ラップバトル編

           とりあえず最初に、2018年でいちばんよかったバトルの一つを引用します。何年かあと、「あのK’illとあのU-mallowがここで戦ってたのかよ」って事態になるんじゃないかな。 ラップの面白さとはなんなのか 「フリースタイルダンジョン」放映開始時くらいに、歌人の間でラップバトルの視聴が流行したらしい。わたしが短歌を始めたころにはだいぶ落ち着いてしまっていたみたいで、「ヒップホップ好きなんです~」みたいな話をすると「以前はダンジョン見てたよ!」というリアクションが多かった記

          ラップが弾丸じゃなくて毒矢であることについて──ラップってなんなのかシリーズ① ラップバトル編

          きみの書くきみの名前は書き順がすこしちがっている秋の花(阿波野巧也)

          きみの書くきみの名前は書き順がすこしちがっている秋の花 阿波野巧也「凸凹」(第一回笹井宏之賞 永井祐賞受賞作)、『短歌ムック ねむらない樹 vol.2』、2019年)  調べてみたら意外と、そのまま人名になりそうな秋の花は希少でした。藍とか、菊とか、桔梗とか、紫苑とか。いずれにしても書き順とあるので、たぶん日本の、漢字の、雰囲気的には下の名前なんだろう。  書き順がすこしちがっていることが、具体的なレベルで生活に影響を与えることはほとんどない。この人にとってもささいな発

          きみの書くきみの名前は書き順がすこしちがっている秋の花(阿波野巧也)

          心底と言うとき急に深くなるこころに沈めたし観覧車(大森静佳)

          心底と言うとき急に深くなるこころに沈めたし観覧車 (大森静佳『カミーユ』書肆侃侃房、2018年)  ほんとうに『カミーユ』の破壊力はすごい。一人だけ5トンのバットでホームラン連発しているみたいだ、大森静佳という歌人は。僕がピッチャーだったら逆に笑っちゃうくらい得点を重ねてくる。この歌も場外だ。  日常語と化してしまっているけれど、その正体は呪文である、という言葉はいくらもある。ふつうに会話中に現れるその呪文は、誰もそうと気づかないうちに発動しているのかもしれない。「メラ

          心底と言うとき急に深くなるこころに沈めたし観覧車(大森静佳)

          イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く(初谷むい)

          イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く (初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』書肆侃侃房、2018年)  最高純度の恋の瞬間を掬い取った、初谷むイズム溢れる一首である。  初谷むいは、好きな人はえらい前のめりで好きだし、嫌いもしくは興味がない人はとことん嫌いもしくは興味がない、というパクチーとかマーマイト的な歌人だと思う。口に合うか否かはともかく、癖の強い個性を持っていることは衆目の一致するところではないだろうか。  僕はどっちかと

          イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く(初谷むい)

          悲し、とふ言葉がけさはうすあをき魚の骨格となりて漂ふ(睦月都)

          悲し、とふ言葉がけさはうすあをき魚の骨格となりて漂ふ 睦月都「十七月の娘たち」(第63回角川短歌賞受賞作、角川『短歌』2017年11月号掲載)  あ、終わった――。  全部が終わる夜があって、その数時間後、全部が終わったことを理解する朝が来る。  悲しい悲しいと思っていてもうこれ以上に悲しいことはないと思いきや、翌日には、えっそういう悲しさっていうのもあるの? と予想を軽く超えられる。それが何回か繰り返されるともう途方に暮れちゃって、もはやわが身体に悲しくない部位

          悲し、とふ言葉がけさはうすあをき魚の骨格となりて漂ふ(睦月都)

          感情を問えばわずかにうつむいてこの湖の深さなど言う(服部真里子)

          感情を問えばわずかにうつむいてこの湖の深さなど言う 服部真里子『行け広野へと』(本阿弥書店、2014年) 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「……423.4m」 「え?」 「この湖、423.4m」  それが深度であることはどれくらい伝わるのだろう。  こういう歌を仮に「脚本系」短歌と名付けるとしたら、この歌は脚本系の中でも宝石のような一首だ。劇のクライマックスでこのやり取りをされたら、たぶん僕はその劇をかなり長いこと覚えていると思う。  この歌が含ま

          感情を問えばわずかにうつむいてこの湖の深さなど言う(服部真里子)

          あなた、すごく日あたりのいい水たまり ねえ、なんでそんなにやさしかったの?(石井僚一)

          あなた、すごく日あたりのいい水たまり ねえ、なんでそんなにやさしかったの? 石井僚一『死ぬほど好きだから死なねーよ』(短歌研究社、2017年)  なんで、と問うているけど、ほんとうは聞くまでもなくわかっているはずだと思う。一般にこの歌に詠まれているような「やさしさ」は、あっと云う間に霧散してしまう性質のもの、一瞬だから許された嘘みたいなものだという認識が、この歌の根底にはあるような気がする。  世界のほとんどは、順当な事象によって構成されている。お金を払うから物が買えて、1

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          吊り橋がどうとか話してたら目の前でワンバンして死ぬくじら(伊舎堂仁)

          吊り橋がどうとか話してたら目の前でワンバンして死ぬくじら 伊舎堂仁『トントングラム』(書肆侃侃房、2014年)  くじらが大好きだ。くじらはめっちゃいい。理由はでかいからだ。くじらはすっごくでかい。最大種のシロナガスクジラだと三十余メートルに至るらしいけど、たぶんもっとでかいと思う。一キロメートルくらいあっても全然ふしぎではない。  そのくじらが死ぬのだから、一大事だ。それを目撃するのだから、きみの人生にとっても節目となる一瞬だ。この歌の口ぶりから言って、事前に「ここでくじ

          吊り橋がどうとか話してたら目の前でワンバンして死ぬくじら(伊舎堂仁)