自作「居酒屋から」~「口実」評

① 居酒屋から(50首)
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 2018年の笹井宏之賞に応募した50首連作。
 このころ服部真里子さんが講師をつとめていたNHK文化センターの短歌講座に通っていたので、その宿題として詠んだ歌がほとんど入っている。たとえば〈なにそのリュック コンセントじゃん笑 けれどもう化粧のような青梅の夕べ〉という歌は、一首をお弁当箱にたとえていた服部さんが、バラン(あの茂みっぽい、おかずの区分けに使うやつ)を作る技術として「第3句に意味のうすい語を置いてみましょう」という宿題を課したときに作ったもの。この「お弁当」理論を含め、服部さんから教わったことは今に至るまで自分の作歌における基礎的な枠組みになっている。
 タイトル通り居酒屋から始まる連作で、このとき僕の唯一の球種だった「ストーリーを記述する」をやっているのがわかる。歌会と歌会後の飲み会に行きまくっていた当時、居酒屋で過ごす機会がとても多く、そこで体感した非現実的な空気からストーリーを連想したものだろう。居酒屋で酒を飲む→そのまま駅で寝る→翌朝起きて山に行く→夜景を見るといった感じ。ストーリーラインを意識するあまり〈降り立ってまず言ったのが最近の高校生は顔から違う〉のような説明にかかりすぎている歌もある。とはいえ1首の短歌を詠もうと思うとなかなか出ない味ではある。
 1首目に置かれている〈テッテレ~(笑)   するとあなたの目玉から大量の大粒の消しゴムのかす〉をはじめ(笑)とか笑とかよく使っていて、これは明確に『死ぬほど好きだから死なねーよ』からの、というかそこに収録されている〈誕生日にもらった花枯れちゃう前に食べるぞってネットで調べたら毒があって症状「笑い死に」って(笑)〉(石井僚一、「誕生日」、『死ぬほど好きだから死なねーよ』、短歌研究社)の影響だと思う。こんな、記号?を使うのって短歌でもアリなんだ!と衝撃を受けたことを覚えている。最近使ってないよなぁ、もう卒業かなぁと思ったら直近の50首連作「麻痺numb」に〈それは(笑)、サイババの「職歴」とおなじくらい(笑)、「ない」(笑)〉があった。

② 照射(10首)
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 友人たちと吟行したときに作った。あるあるな場所(動物園)にあるあるなシチュエーション(結婚に際して相手方の親へ挨拶する)を乗算して連作の空気感を作ろうとしている。「ストーリーを語る」以外に、どうすれば連作を作ることができるのか考えている時期だったのだろう。動物園を歩きながら幻視幻視幻視……とがんばっていた記憶がある。余談だが僕は動物園と水族館がかなり好きだ。身体の大きい動物が生きて呼吸をしている様子を見ると心が動く。
 リズムの面でもこのあたりから「連作としての音韻遊び」をやっている。たとえば、イギリスとかの詩でよくある1行おきの脚韻を参考にして、1(ズウ)・3(夕)・5首目(言う)と踏んだ挙句、7首目に破調を持ってくるというパターンがそのひとつ。〈挨拶をせよと言われて挨拶 の残光がやや照射する象畑〉で、連作ラストの結句にて〈しょうしゃ〉〈ぞうば〉と字余り頭韻をしているのも、最後にリズム上のオチをつけて歌の連なりを意識的に連作化するためにやっていたはずだ。

③ よそゆき(5首)
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 〈塩素(えんそ)……?〉のような歌を中心に置いて、その歌が作る磁場の中でどういう歌やタイトルを置けばどういう距離感になるのかを実験していたと思われる。1首目〈ぱ行がない おそらく首都で手に取ったどの紙幣にも蝶がいて、結果、〉から2首目〈よかったよね、結果 砂場には二羽にわとりが今にも生まれようとしている〉に「結果」繋ぎをしているのはその課題に対するひとつの回答だったのだろう。タイトルを連作の中身から離すというか、別の世界線から持ってくる手法も初挑戦だったはず。

④ 雪の民(6首)
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 縁語(雪、氷、冬など)まとめの連作。もっと言うと「連作の行間読ませパワーを使えば無理やり放り込んだ縁語でも成立する説」の検証だった。個人的にはあんまりうまくいってないなぁというか、説検証にかかりすぎて1首単体で光るところまで各歌を磨けなかったなぁという気がする。連作として光ればそれはそれでいいんだけどそれも微妙で、つまりこういう「行間を使って雑な繋ぎをする」という手法を取るときにその「繋ぎ」の原動力が読者のモチベーションにかかっていることを考慮すると、いわばその動機として1首単体でのおもしろさを提供する必要があったんじゃないかと思う。それと、〈みんな〜 「眼鏡を探してたら、実は手なんて美しくなかった」ってこと、あるよね? 雪の民〉(「実は手なんて美しくなかった」に傍点あり)を1行で入れたいがためにフォントサイズやページ余白を小さくしてしまったことも若干後悔。こういうのも連作感醸成の成否には大きく関わってくる。
 〈凍るとは氷のなかで踊ること(?)踊りのなかで水を飲むこと(??)〉は、石狩良平の〈自嘲とは夜に一人で歩くこと あなたのことを考えること〉(「オオカミ男満月自己判断仮説」、『かばん』2017年5月号)の本歌取り(ヒップホップで言うとサンプリングよりはビートジャックに近い)。意味においてもリズムにおいても心に残る短歌だと思って、自作でなぞれるか試してみた。

⑤ 昭和三十七年(5首)
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 先にタイトルがあって作った連作。冒頭に「昭和三十七年」を、末尾に「昭和三十八年」を置いて時間をなんとなく流しておき、そのあいだに距離のはなれた事物を詰めこむ方式で作られている。というのは後付けで、実際にはそこまで考えていなかった(「昭和三十七年」から始めて適当に何首か詠み、そろそろ終わりかなと思った頃にあ〜じゃあ「昭和三十八年」でも入れとくか、みたいな感じだった記憶)。
 この連作そのものは新かななんだけど旧かなを試みていた時期ではあって、〈片言の電車がみえる海沿いの枕木すべて鯖だつたなら〉は当初旧かなで詠んだものを新かなに修正しようとして、修正漏れしている(〈鯖だつたなら〉のあたり)。

⑥ 風景(5首)
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 その旧かなをやってみたのがこっちの連作。旧かなを着せたほうが輝ける歌があるなというのは前々から感じていて、この連作に並んでいるのはまさにそういう歌たちである。おそらく新かなよりも「この作者名の人ではなく、謎の声が言ってる」感が強まるというのがポイントではないか。その謎の声はなんとなく懐かしくて権威的で可愛らしい。短歌という詩型をやっているからには、一度は手を出したくなる不可思議なツールだと思う。
 作者視点で言うと、旧かなで作るとき、短歌定型との格闘においてすこし作者が弱くなる感覚がある。それは決して旧かなの本質ではなく、2021年現在の暫定的なポジショニングに由来するハッタリなのだが、そのハッタリに作者自身が騙されるということが僕の場合は起こりやすい。だから〈花と共に船に乗せられゆく人の群れのさなかに毛のおほき蝶〉というわかりやすく短歌っぽいものや、〈こぼるればこぼるるほどに砂糖・緑にぬらるるガツン、とみかん〉のような別のソースから持ってきた語をぶつけるみたいな歌ができてくる(ちなみに「ガツン、とみかん」はこの商品の正式な表記である)。これでもまだ奮闘しているほうで、〈指で× 指で○ 指で◎ 風景が滲んで見えてくる〉あたりはかなりの程度、短歌定型が僕を経由して詠んでいる歌という気がする。特に下の句。短歌さんどうも~あー貸します貸します~という感じ(このくらい無抵抗でやっていると、そのうち短歌のせいにして人を殺してしまう)。

⑦ 口実(10首)
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 たとえば漫画とイラストは異なるスポーツだ。1コマずつの絵がすばらしいからといってその漫画が名作たりえるとは限らず、その逆もまた然りである。漫画はコマとコマとの距離感を用いて、単なるイラストの集合体以上の意味を作ることができる。漫画家とイラストレーターは別々の職業であって、求められる技術や思考法は(重複するところは大いにあれど)基本的には別々のものだ。
 短歌連作と短歌も、もしかして漫画とイラストくらい異なるのではないか、と最近は思っている。というか、異なると認識することによって、短歌連作が新たな価値をもたらしてくれるのではないかと期待している。私たちは短歌作家と短歌連作作家を兼業している――そんな風に考えてみたらどうなるだろう?
 「口実」で志向したのは、一首の短歌としてよいものがあるかと言うと見当たらない、にもかかわらず(だからこそ)連作が連作としておもしろい、つまり短歌のよさに依存しない短歌連作だった。短歌と短歌とのあいだに生まれる重力(読者の持つ、連続した場面として読みたい欲望と連続した場面として読むことへの警戒心が引きあって生まれる磁場)を使ったツボ押しのために、背後に説明が存在しそうだけれど説明されない、そして関連付けてよいのか判断に困る事物が言葉のうえでは確かに存在して並べられている、という塩梅がもっとも心地よいのではないかと考えたのだ。
 読者が僕自身しかいないのなら、その試みは成功している。僕は「口実」が、自作・他作含めたすべての連作の中でもトップクラスに好きだ。しかしよくよく考えると、先述した重力というのは読者それぞれの内側に独自のルールではたらくものである。一人の読者にだけ届けばよいのならともかく、複数の読者に読んでもらいたいと思うなら、作者は考慮をしなければならない。たとえば〈トイレには『天使なんかじゃない』の像 …でも あたしは好きよ マミリン〉の歌。連作のこの位置に、ちょうど『天使なんかじゃない』(矢沢あい、集英社)の特定のシーンが持つ味がほしいと思った。けれどそれは、『天使なんかじゃない』でトイレと言えば劇に出るのを嫌がってトイレにこもり「あんたなんか大嫌い」と言ったマミリンに対して〈あんたがあたしを嫌いでも あたしは好きよ マミリン!〉と主人公が返答したシーンだよね~……という共感を読者に求めることかもしれない。それが世代や趣味で内側と外側を区切った内輪ネタでなくてなんだろう?(でも、ちょうどその味がこの場所にほしいと思った時に、味は違うけれどより幅広い内輪ネタに付け替えるほうがおもしろいのか(どうせ言葉を経由して感じられる味なんて規模の大小はあれつまるところ内輪ネタではないか)? そういう味を希求すること自体がつまらない営為なのだろうか? いや、作者が何を意図していようと、それこそ『天使なんかじゃない』を読んだことがあろうとなかろうと、読者は読者で読み筋を見つけて楽しむだけの話ではないか? いやいやそんなのはあくまで机上論であって、実際のところ知らない固有名詞が入ってる時点で読む気なくすでしょ?(僕はなくす))、急に「JR西日本」が出てくるのっておもしろいのか?(所詮は、こういう急カーブおもしろいでしょという目くばせなりマウンティングなりでしかないのか? いやでもおもしろいよね? これがおもしろい人だけとつるんでれば人生ハッピーなのか? というか根本的な話、ここでJR西日本が出てきておもしろいからなんなんだ?)……考えごとは尽きない。なんにせよ個人的には思い入れの深い連作である。

 ここまでが2019年編。あんまり近作だと解説してもおもしろくないので、またそのうち間を空けて、2020年編「(1首)」~「産湯(10首)」を書いてみたい。

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