輪ゴム噛んだらだんだん味がするようなそんな散歩で続けた未来(武田穂佳)

輪ゴム噛んだらだんだん味がするようなそんな散歩で続けた未来
武田穂佳「家族の休日」(『かばん』2019年9月号掲載)

 輪ゴムくらい好きに噛めばいいと思うけど、あんま短歌の冒頭で出会うとは予想していなかったな〜〜 複数の人の作品が載っている冊子に、読み進めるたびに誰かがなにかを言っているような、混みあった路地のような印象をわたしは抱いていて、とすれば連作の一首目はその路地ですれ違う人の「あ、どうも」に次ぐ一言目ということになる。

あ、どうも。輪ゴム噛んだら…… 

 急に(助詞もなく)言われるせいなのか、読者はいくらかの混乱を覚える。輪ゴム、輪ゴムを噛む。ガムみたいなこと? おいしいのか? その人のポケットに入っているたくさんの輪ゴムや、噛む前に確認されるのかもしれない伸び具合、色による味の違い? などが頭に去来するのを感じる。や、でも、ともかく話を聞こう。輪ゴム噛んだら、何? と読み進めていく。

輪ゴム噛んだらだんだん味がするようなそんな散歩……

 なんと、あそこまで想像したのに、輪ゴムは噛まれていなかった(ショック)。それは「散歩」の比喩として提示されたのだった。混乱が追加でやってくる、そんな中でも、この喩を論理的に理解しようと健気な脳が稼働する。輪ゴム噛んだらだんだん味がする、はわかるような。輪ゴムはないけど、ティッシュは食べたことあるし(鼻セレブがおいしい)。「噛む」→「味がする」の経験則に脳が騙されたゆえの錯覚のような味がするものだ。たぶん輪ゴムもそんなところだろう。それに、噛めば噛むほど、みたいなロジックはスルメを援用できる。切った輪ゴムに似た、糸っぽいスルメもある。あの感じ、あの感じの、散歩? 噛んだら味がするような散歩ってなんだ? じっくり味わい深い感じ? さっきのティッシュの味のイメージに絡めると、楽しさがどこか嘘っぽいとか?

輪ゴム噛んだらだんだん味がするようなそんな散歩で続けた未来

 散歩で、続けた未来って、自分で続けてる、散歩は未来を続かせる、未来、ん~……? 
 数秒後には連作は次の話題に移っていて、この人は違うことをしゃべっている。朝マックをお母さんと食べた話(?)や宝くじ200円当てたら義姉に感心された話(??)など。ひととおり話し終えたら、「じゃ……」とわたしの前を立ち去ってしまう。終わり? 呆然と後ろ姿を見送っている心地がする。この謎の後味は何味なんだ?

 一首目として標題の歌がなかったらもう少し冷静な頭でそのあとの話を聞くことになっただろう。それがこんなに楽しい体験になったかどうか。

 まるで惑星ごとに固有の重力があるように、歌や連作を何かが支配していることがある。それは価値観や思想であったり、特定の製法で作られた詩情であったり、あるいはリズムであったりする。初めての土地でフワフワしている読者には、その星の重力に遭遇してから慣れるまで多かれ少なかれ混乱の時間が齎されるわけだけど、その混乱は時にこういう酩酊じみた楽しさを覚えさせる。よく考えると、それは、読者として得がたい幸福の時間と言ってもいいかもしれない。楽しかったです。

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