てふてふのてんぷらあげむとうきたてば蝶蝶はあぶらはじきてまばゆ(渡辺松男)

てふてふのてんぷらあげむとうきたてば蝶蝶はあぶらはじきてまばゆ
渡辺松男『蝶』(ながらみ書房、2011年)

 蝶々をてんぷらに揚げようという発想には納得感がある。

 蝶々をてんぷらにする文化が、日本のどこかにあるのかは知らない。念のためグーグルで検索してみたところ「蝶々」というハンドルネームの人がてんぷら屋さんを讃えている口コミが出てきた程度なので、ないか、あるとしても一般的ではないのだろう。わたしも、見たことも食べたこともない(ある人がいたらご一報ください)。
 なのに、蝶々をてんぷらにすることには納得感がある。少なくとも、そのことを基礎としてこの一首は詩情を打ち立てている。言われてみればそうか。気づかなかった、蝶々はてんぷらの種としてなかなかの逸材だ。さくっと歯ごたえよく揚がりそうな薄い羽と、意外と肉厚そうな身体。何よりてんぷらの美を根本的に支える、シルエットにおける抜群の適性……。本来、海老と並んで定番の座を占めていてもおかしくなかったのではないだろうか、とさえ思う。
 蝶々と海老を区別しているのは、さまざまな科学的根拠や経験則を背景に透かしながらも、つまるところ「虫≠食用」、かつ「てんぷら=食用」、したがって「虫≠てんぷら」という、常識から導かれた観念に過ぎない。常識は、わたしも大いに信頼することの多い色眼鏡ではあるけれど、時にそれを外して見た景色に、ある意味で納得感の強いものが転がっていることがある。本来的には成立する論理を、常識が遮ってしまうような例である。蝶々をてんぷらにしようというアイディアは、まさにその類の発見であろう。

 いざ揚げてみれば、油を弾いてしまったと言う。
 さもありなん。そもそも常識の向こう岸から持ってきた「蝶々のてんぷら」という、大げさに言えばこの世ならざるアイディアだ。常識が支配するこの世にやすやすと権現するはずがない。向こう岸から引き寄せられた巨大な抵抗のエネルギーが発生し、おそろしい音をばちばちと立てて、眩いかがやきを放ちながら油を四散させるのだろう。
 主体はこの大ごとをうっとりと見ている。読者が主体に憑依するように読むならば、読者もすこしぼーっとして、うっとり見てしまう。この世ならざるアイディアによって起こった事故の、この世ならざる美しさに……。早く火を止めなくてはいけないのに……。

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