いない犬が散歩を嫌がるけど外に出る  いない犬だから(乾遥香)

いない犬が散歩を嫌がるけど外に出る  いない犬だから
乾遥香「永遠考」(『ぬばたま 第四号』、2019年)

 「犬」はいないのだろうか?
 歌によると、犬はいない。「いる犬」が散歩を嫌がっているなら外に出ることをためらいもするけれど、「いない犬」なら何もないので外に出る。そうです、この話している人が外に出ただけです。

 いや、でも「犬」、いるよね?
 だからいないって言ってるでしょ、と諭されたら返す言葉はない。いるんなら連れてきてくれよ、と詰められれば、とんでもない、いないよね、と答える。必要に迫られれば、こちらから力説したってかまわない。犬はいない。
 そうやって犬を問題にすればするほど、犬の不在が証明されると同時に、犬の存在感は増してゆく。おそろしいことになってしまった。もうわたしは、この「いない犬」に触れることさえできそうである(もちろんできない)。

 犬のいる/いないが気にかかるのは、犬が万が一「いる」場合、犬が散歩を嫌がることには何か理由があるのかもしれない、という危機感に似た感覚がうっすらとはたらくからだと思う。
 小学校のときに音楽の授業で視聴した、シューベルト作曲の「魔王」が思い出される。「お父さん、お父さん」のあれ。あれだって、あの子ども以外の全員にとっては「いない魔王」だったし、父親の「あれは霧だよ」とか「柳の影だよ」、の「魔王はいない」に基づく回答は正当だった。「いない魔王」はどこまで行っても「いない」という態度を一貫したのだ。ちょうど掲出歌で、「いない犬」は「いない」として外へ出て行った人と同様に。
 「魔王」に限って言えば、結果として子どもは死んだ。そして魔王が「いた」のか「いなかった」のかは、ついぞわからずじまいである。では「犬」は?

 犬はまぎれもなく「いない」のだけど、もし「いる」としたらどうしよう?

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