ラップが弾丸じゃなくて毒矢であることについて──ラップってなんなのかシリーズ① ラップバトル編

 とりあえず最初に、2018年でいちばんよかったバトルの一つを引用します。何年かあと、「あのK’illとあのU-mallowがここで戦ってたのかよ」って事態になるんじゃないかな。


ラップの面白さとはなんなのか

 「フリースタイルダンジョン」放映開始時くらいに、歌人の間でラップバトルの視聴が流行したらしい。わたしが短歌を始めたころにはだいぶ落ち着いてしまっていたみたいで、「ヒップホップ好きなんです~」みたいな話をすると「以前はダンジョン見てたよ!」というリアクションが多かった記憶がある。二代目モンスターに切り替わる直前くらいだったかな。以前は毎週見ていたもののそのうち飽きて離脱してしまった、という声が多くて、残念だったと同時にそれも仕方ないなという気もしていた。

 「ダンジョン」が不親切だな~と思うのが、このラップバトルというスポーツの楽しみ方をわかりやすく解説してくれないこと。「ダンジョン」でラップバトルを初めて見て、大の大人が臆面もなく罵り合う姿に引いた人もいるかもしれないけど、そこにそれ以上の何か=よくわかんないけど面白い、という感想を持った人も多かったんじゃないかなと思う。しかしそれが何なのか=「ラップの何が面白いのか」=「どのような評価軸でラップを楽しめばよいのか」という問題に至るとそのヒントは失われてしまう。それが共有されなければ、ラップバトルは単なるテンポのいい口喧嘩以上には見えないはずで、物珍しさが助力していた最初のフェーズが終わればそこに飽きが来るのは必然だろう。

 というわけで本稿では、ラップの面白さとは何か? ということを、ラップバトルを前提にして説明します。なお、短歌をやっている人が読むと、いろいろな次元において短歌とパラレルな話になっていることが実感できるかと思います。

ルールの複合性:イズム・リズム・ライム

 ラップバトルの面白さを一言で表すと、「ルールの複合性」ということになると思う。プレイヤーはラップという一つの行為において複数のルールで同時に競うことを求められており、各表現の矛盾をどのように――しかも即興で――最適化するかという問題に対する各自の答えを提示している。その答えの豊かさが、わたしの考えるラップバトルの楽しみポイントだ。
 たとえばディベートという競技においてルールは一つである。自身の論理が対戦相手の論理よりも勝っていることを証明し、聴者を納得させること。評価軸は原則として「論理性」以外に存在しない。
 一方、ラップバトルにおいては大きく分けて3つのルールにおいて同時に競うことが求められる。イズムリズムライムの3つである。

イズム=言葉の内容に関するもの。主張の論理性、表現の詩情、プレイヤーの持つキャラクターやドラマ性など。
リズム=音に関するもの。リズムの取り方、声の出し方、メロディーの付け方など。
ライム=韻。主流なもので言うと、同じ母音の語の連続。

 ポイントはこの3つが「どのように組み合わさるか」ということである……が、それは後述するとして、まずはそれぞれどのような概念なのかをもう少し詳しく共有したい。冗長な説明をするのもあれなので、それぞれの軸から優れているバトルを例にとります。

(1)イズム

 呂布カルマ(オールバックのほう)の内容に注目すると、相手の言葉を拾ってすごい角度から反論することで観客を納得させていることがわかると思う。それはたとえば「ライブをやらせてもらう」という言い方(〇〇させていただきます……的な慣用表現でもある)に対する「やらせて"もらってる"奴のライブなんか見せられる方の気持ちにもなってくれよ」という揚げ足取りであり、「あんたが有名?関係ねえ」という啖呵に対する「俺が有名、お前もダセえ奴で有名」という相手のフレーズを逆手に取った貶め方であり、「うらやましい人生だと思うよ、好きなことをやれてその上で音源も売れて有名にもなれてテレビにも出れて」という本音に対する「俺が手に入れてきたもの、何も偶然じゃないし俺は二世じゃない」という至極もっともな正論である。必ずしも一貫して論理的というわけでなく、それでも彼の発言に途方もない説得力が伴う理由は、その反論の多彩さ、そしてそれぞれの非常にユニークな切り口にある。それによって呂布カルマは口喧嘩に圧勝しているのだ。もっともイズムの価値は、口喧嘩の勝敗だけにあるわけではない。たとえば詩情。後で出てくるムートンというラッパーは「踊るマーメイドと回るターンテーブル」という組み合わせについてしばしば言及するが、この幻想的かつ実在しないものとすぐそこに実在するものとの二物衝突によって生まれるポエジー、これも「イズム」の領域におけるポイントとなる。また、自身がどういう人間なのかというキャラクター性の付与も重要な戦法である。たとえばAmaterasというラッパーは、周りの「貧困層から這い上がってマイク一本でメイクマネーしてやるぜハッハー」という主張の中で「自分は親が金持ちで慶應大学のエリートで生まれながらの勝ち組、そこら辺の奴らとは格が違う」と豪語している。観客はAmaterasのラップを"どのように味わえばよいか"というヒントを享受し、より魅了されやすくなる。これも意味の文脈におけるスキームの一つだと言ってよい(少なくとも「ラップとは特定の個人から発される言葉である」という了解が共有されている以上は、それを否定するすべはない)。要するにどのような経路であれ、詩として力を持ち、観客を納得させられるか。いわば文学としてのラップ、それが「イズム」の価値である。

(2)リズム

 バトルの時にどのビートがかかるかは、本当に寸前までわからない。有名な音源のバックトラックが引用される場合もあるが、DJが昨日作ってきたビートが流れる可能性もある。ビートにどのようなラップを乗せれば音楽として魅力的になるかはラップを運びながら模索することになる。この試合の二人、特にムートン(タオルのほう)はわかりやすい。耳を傾ければ、ターンごとにリズムの取り方を変えていることに気づくだろう。つまり(雑に単純化すると)、ビートの「音があるところ」と「音がないところ」・「この音階/音色の音があるところ」・「このBPM」という諸与件に対して音であるところの声をどのように配置するか、という設問があり、その答えを幾通りも提示しているのだ。いわば勝手に動く左手の伴奏に、右手でどのような音を奏でるか。そんなゲームである。それは意味や理屈に拠らない、「音」としての心地よさを希求する行為に他ならない。音楽としてのラップ、それが「リズム」の価値である。

(3)ライム

 母音を合わせるというのがラップにおける韻の基本形となっている。この試合のミメイ(ヤンキーじゃないほう)はすごい量の韻を踏んでいるが、最初に落とした「喧嘩じゃ足りない音楽性 ラップのスキルは達しない合格点 じゃ吹っ飛ばしてやる小惑星 平成?クッソ昭和臭えだろこいつ」の時点で脱帽するよりほかない。<o-u-a-u-e>の母音がきれいに揃っているのである(最後の二つなんか子音まで揃えている)。ライムはイズムやリズムに比べると「特殊ルール」的な色合いが強く、その価値を一言するのは難しい。韻を踏まなくてもラップは成立するし、韻を踏まないスタイルで名を上げているプレイヤーも多く存在する。が、韻がばっちり決まったとき、見ている側にはちょっとした驚き、時には爆発的な興奮が訪れるのも事実だ。はたして、音が揃っているのが耳に快いのか? 遠かった二語の急に結合するその速度が意表を突くのか? 長い韻が即興で編まれていくことにメタ的な驚嘆があるのか? その感動の源泉は、イズム・リズムの両領域と結びついている感覚はあるものの、何なのかは判然としない。とにかく観客を奮わせるその異質な力、とりあえずはそれがライムの価値であると言うことにする。

 これらの根本的に異なる種類の表現は、ラップという一つの行為によって相互に作用して実現される。これまで見てきたいずれのバースにおいても行為は一つ、ラップ以外のことは何もしていない。しかしこれを評価しようとすると、意味のレイヤー/音のレイヤー/韻のレイヤーと3つの側面でまったく異なる表現が行われていることがわかるだろう。複合的なルールで競争しているという言葉の意味はここにある。ラップバトルにおいてプレイヤーたちは、「イズムで勝つ」「リズムで勝つ」「ライムで勝つ」という3つの競技を同時に行っているのである。

 ラップは言葉の弾丸である、という喩えがよくされるけど、わたしは矢のほうが的確なんじゃないかと思っている。弾丸が火薬の圧力という単一の力によって直線を描くのに対して、矢は射出の弾力と重力という二つの力の組み合いにより放物線を描いて目標に刺さる。そのありようは、意味であると同時に音であるラップの伝わり方によく似ている。この喩えに乗っけるならライムは穂先に塗られた毒のようなものではないか。どういう原理かは知らず、刺されば抜群の殺傷能力を秘めているわけである。ラップは弾丸でなく、毒矢なのである。

 さて、ここまでが前提。ここから「ラップバトルは何が面白いのか」という本論に入ります。もうちょっとだけ続くんじゃ

続き書きました。②はこちら

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