きみの書くきみの名前は書き順がすこしちがっている秋の花(阿波野巧也)

きみの書くきみの名前は書き順がすこしちがっている秋の花
阿波野巧也「凸凹」(第一回笹井宏之賞 永井祐賞受賞作)、『短歌ムック ねむらない樹 vol.2』、2019年)

 調べてみたら意外と、そのまま人名になりそうな秋の花は希少でした。藍とか、菊とか、桔梗とか、紫苑とか。いずれにしても書き順とあるので、たぶん日本の、漢字の、雰囲気的には下の名前なんだろう。
 書き順がすこしちがっていることが、具体的なレベルで生活に影響を与えることはほとんどない。この人にとってもささいな発見だったはずだ。藍の字なんか「臣」あたりの書き順をいかにも間違えそうだし(僕も正しい書き順で覚えているか自信がない)。書き順の間違いなんてよくあることである。ちょっとズレている、そんなあなたが愛らしい、微笑ましい、で読んで、ひとまず次の歌に目を移してもいいかもしれない。
 でも少しだけ、不安がよぎらないでもない。ひょっとして「書き順がすこしちがっている」ことは思ったより深刻だったりしないだろうか。なぜならそれは「きみ」にとって、自分の名前なのだ。「きみ」は漢字で名前を書くようになってから向こう、ずっと自分の名前の書き順を間違い続けているのだ。何千回か何万回か不明なほどの回数を。別にどうでもいいはずなんだけど、なんかこわくね?

 一般に、名づけには願いが込められているとされる。優子なら優しい人でありますように、健太なら健康に育つように、という願いである。秋の花、たとえば「藍」なら、藍のように彩りうつくしく咲きますように、といったところだろうか。
 この前提に立つと、藍さんの名前を「藍」と書いたり呼んだりするのは、その願いを発動させる手続きだと言える。つまりそれは、改めて「きみ」が「藍」、きれいな青色に咲く秋の花であることを追認する行為なのだ。発言した自分自身や発言を聞いた人々に対し、この人物は藍なのだという認識を植え付けているのだ。いわば、魔法を発動させるための魔法陣や詠唱のようなもので、「ホイミ」と唱えたら傷が回復するのと同じように、「藍」と名を呼ぶことで藍は藍として咲くことになる。
 そして、一般に不完全な手続きでは不完全な魔法しか発動しない。そういう魔術的なのってやたら厳格に手続きを守らないと成功しない感じあるじゃないですか。こっくりさんとか。しかも少しでも間違うと、霊が取り憑いたまま帰ってくれなくなるとか、腕を代償に持っていかれるとか、要するに恐ろしい事態になる感じ。名前の書き順を間違えるという些細な誤りが、もう少し深刻なんじゃないか、と直感した根拠はこのあたりにあると思う。

 「きみ」は生まれてこの方、間違った方法で願いをかなえようとしていた。なるほど、生活がうまくいくはずなかった……。彩りうつくしく咲くための魔法は失敗し続けていたのだ。この人は、大げさにいうとそういうことに気づいてしまったのだと思う。
 それでももう何千回と重ね掛けされた不完全な魔法は、それはそれでそのように咲いた花なんだろう。この歌の視線は、憂鬱さを伴いつつも基本的には「きみ」のおかしな書き順を愛おしく捉えているように見える。これまでずっと間違っちゃってた時間も含めて、そう見える。

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