評ではない文章(さいきん考えていること)

 短歌の評以外の文章を書くのは気が進まない。

 しかしこうなってくると(実はすべてにおいてそうなのかもしれないが)、書かないことはあえて書かないことに近い。短歌は(諸説あるが、今のところ僕が考えるかぎり)つまるところ人間という存在と切り離すことのできないもので、人間は人間社会から絶えず影響を与え続けられるものである。したがって、短歌を読むためには人間社会に関する最低限の理解を持っていなくてはいけない。短歌と人間社会の接続を認めないためには、明らかにあらわれている何らかをあえて無視することしか道はない。それはあんまり意味のない営為である。

 どこまでも人間や人間社会から逃げられないことにはため息をつきたくもなる。

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 さいきん考えてきたことを簡潔に述べると以下のようになる。新型コロナウイルス感染症という経験は、現代人が相対した近年まれにみる強烈な気晴らしだった。僕たちの辛い辛い退屈をかき消してくれる、とても消費社会のモデルでは生み出すことのできない新しい種類の興奮を与えてくれるコンテンツだった。つまるところ僕たちは麻薬を経験してしまった。新型コロナウイルス感染症がもしも終息したならば、もしくはそれが与えてくれる興奮では満足できなくなったならば、僕たちは何か新しい、もっと興奮させてくれる危機を求めるだろう。たとえば恐慌とか戦争とか、そういうものを。それが実際に起こるかどうかは別として、それが状況として起こりうるとき、このままでは僕たちはそれをひそかに歓迎するにちがいない。あとはこれを押すだけで構わないとスイッチを渡されれば押してしまうかもしれない。僕たちはそういう風に作り替えられてしまったのではないだろうか。

 新型コロナウイルス感染症に罹患した人、感染症のために亡くなった人とその遺族、感染症のために危険を顧みず働くことを強制されている人の苦しみに対して心から残念に思う。だからこそ、同じ心の中に巣くっている上記のふざけた考えのことは言語化しておかなければならない。

 なお、退屈論については過去多くの思想家が言及を重ねており、以下の文章はそれを現状に当てはめてみたらかなりピッタリ来ましたという話に過ぎない。興味を持った人はぜひ、この問題をわかりやすくまとめている『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎)を読んでください。

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 まずは以下の2点を確認しておきたい。

① 退屈は人間にとって、とても耐えるのが難しい苦しみである。人間は、退屈を紛らわすためにあらゆる手を尽くす。そして手を尽くす人間は、その構造上、その行為が退屈を紛らわすためであることに意識的ではありえない。

 退屈とは外部から刺激を一定程度受信しなかった場合に人間が陥る、鬱屈とした状態のことである。対義語に、刺激を受けて充足感を得ている状態を指す興奮がある。一般に「退屈だ」と言うとき、それはやるべきことが何もなく暇を持て余している状態を指すことが多いけれど、ここで言う退屈は物理的な多忙さとはあまり関係がない。どんなに忙しくとも、朝から晩までタスクに追われながらも、そこにいっさいの興奮がなければ退屈することは可能だ。可能どころか、やるべきことに追われながら喜びも悲しみもなく、充足とはほど遠く、ただ飽き飽きした気持ちのまま時間を過ごしていくというのがどういうことか、たぶん2020年に生きる僕たちは容易に想像できるのではないだろうか。ここでは、その状態を退屈と呼ぶ。

 それがなぜかは置いておくとして、人間はたいてい退屈に耐えることができない。動かないで、触れ合わないで、感動しないで、熱中しないで、ただじっとしていることができない。没頭して、自分自身を何かの奴隷にしないではいられない。昨日と同じ今日を送り、今日と同じ明日を迎えることを何よりも恐れている。

 なぜ、電車の中で何もしないではいられずスマホを取り出してしまうのか? 広告を見てしまうのか? 考え事をしてしまうのか? なぜ僕たちは、苛立ちと金銭の喪失という結果ばかりもたらすソシャゲやパチンコに手を出し、つまらないと言いながらテレビ番組を見ることをやめず、興味のない相手に粘着して無為な口論を繰り広げてしまうのか? なぜ所属や仕事に誇りを持っているかのように装い、根拠不明とわかっているルールやマナーを指先まで遵守しようとするのか? それは、何もないことの苦しさに比べれば、せめて何かがあるほうがましだと心底理解しているからではないか(少なくとも何もないとき、気晴らしによってもたらされる被害がある点を越えないときは、そのように思っているからではないか)。何もしないこと、何も刺激がないことそのものが苦しいがゆえに、人間は何か自分に対して刺激をもたらさなければならず、常に何かの気晴らしに駆り立てられているのである。上に挙げた僕たちの行動はすべて気晴らしのための取り組みであり、退屈という状態が苦しければ苦しいほど、気晴らしが強い熱心さをもって遂行されるということなのではないだろうか。

 そして構造の問題として、何かをやっている最中、人間はその行為が退屈を紛らわすために行われていることに気づくことはできない。気づいたと同時にその行為は意味を失うからだ。退屈を意識しながら、退屈を意識しないために何かをすることはできない。このことをおそらく深層でよく理解している僕たちは、実に巧みに自分を騙し、「この行為は気晴らしなどではなく、自分本来の情熱の発露なのだ」と信じ込んで退屈から目を背けることができる。それができるような無意識を、着実に育て上げてきたと言うべきかもしれない。

② 気晴らしには、より退屈を紛らわせてくれるものと、より退屈を紛らわせてくれないものがある。

 言ってみれば退屈とは、常に蚊の羽音が聞こえているに等しい。それ以外に何も鳴っていなければ聞かざるを得ない不愉快な音が。それに気づかないふりをするためには、他の音を聞く必要がある。それも、微弱な音ではいけない。できる限り大きな、興味をそそられる、熱中できる、没頭できる、そういう音が必要になる。

 何が大きく響くかはもちろん個々によって異なる。しかし大雑把に言えば、人間に退屈の存在を知覚させないほどの気晴らしには、以下の要素が備わっているようだ。

・その気晴らしが、自分の予測と異なる動きをすること(◯◯とはこういうもので、こう動くはずだという前提が脅かされること)。

・その動きから再予測して改めて前提を構築する過程をはじめ、その対応に身体的もしくは精神的に自分に負荷がかかること。

・その負荷について自分を納得させられること。すなわち、熱中に値する正義、大義、意義があること。退屈など関係なく、いかにも自分がそれに没頭しそうであること。

 特に1点目はこのごろ、特に重要になってきているようだ。人々の求めるところを先に規定しておき、するべき感動を先に用意しておいてくれるという文化産業と消費者の関係も極まるところまで極まってきた。生産者が消費者に感動を用意しつづけるのと同じ速度で、消費者はその手口に慣れ続けていく。この繰り返しの結果、今では「この気晴らしでは感動できないことが事前に明らかになっている気晴らし」(ネットの広告でよく見る、どう考えてもおもしろくない漫画の広告はおそらくこういう仕組みになっている。つまり、漫画そのものが気晴らしなのではなく、「明らかにつまらないことが明示されている」ものを読み「やっぱりつまらなかった」と感想する、予測と実証の反復構造そのものが消費されているのである)か、「消費社会の論理では用意できない、誰かに与えられるものではない気晴らし」のどちらかを求めるようになっている。

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 新型コロナウイルス感染症という経験は、まさに消費社会の論理では用意できない予想外さと、慣れない非日常を送るという負荷の大きさにおいて比類ないものだった。そして熱中することについては、生命の聖域的な尊さという最高クラスの説得力と、「全世界」(本当は全世界ではない)が一丸となって同じことを体験したある種の大規模なコミュニティ意識とが手をつないでそれを補助してくれた。話はそれるが、国民みんなで乗り越えようみたいなこの空気はおそらく、ここ100年で最も強烈な気晴らしだった総力戦体制下での戦争に近かったろう。大義に基づく熱中。喜ばしいかそうではないかは別として、そのことしか考えられない状態。さらに話をそらすと、マスクや給付金の支給がなぜか世帯ごとに設定されていることもこれが総力戦体制のモデルなら説明しやすい。国民国家の国民軍構想に基づく総力戦体制とは、国家に対して人材を提供する供給源としての、家父長制に基づく家(世帯)こそがその基礎単位であり、国家が相対するのは個人ではなく世帯、ひいては世帯主であるはずの成人男子だからだ。こういうところにジェンダーとネイションの深刻な交点がある。

 さて、話を戻す。新型コロナウイルス感染症が強烈な気晴らしとして多くの人の心を捕えてしまったことは、それが外出自粛や積極的な感染対策を促したのであれば、いいことだったよね、とも考えられるはずだ。もちろんそれには一理がある。人々が一致団結して耐え難きを耐え、不幸の総量を減少させる動きそのものをどうやって批判できるだろう。論点はそこにはない。

 楽しいとか辛いとかは別として、そこに没頭しているさなかの退屈の消え方は尋常ではなかったと思う。もちろんやることがなくて困るという声はちらほら聞こえた。しかし先述したように、忙しくないことそのものは退屈ではない。むしろいつまで続くかわからない非日常のあいだ、僕たちには常に何かがあった。考えるべきこと、怒るべきこと、話すべきこと、知るべきこと、遵守すべきことが身の回りにあふれていた。この非日常がもし終わるときが来るのとしたら、僕たちにはまた何もなくなってしまい、しばらく意識することのなかった死なない蚊の羽音をまた聞くことになる。そのときに僕たちはおそろしい耐え難さを覚え、さらなる強烈な気晴らしを望むのではないか。深刻なのは、先ほど確認したように、それが気晴らしを望む気持ちであることに気づくことが構造上難しいという点である。これから僕たちは、議論の体を取りながら裏で手を取り合い、全員で喜びいさみながら恐慌や戦争や混乱を求めてしまうのではないかという気がする。

 命が何より大事だという大義に全員が従うとき、命にあたる語がいつの間にか入れ替わってしまわないと誰が言えるだろう。自由、平等、愛、家族、国、代入できる言葉はいくらでもある。

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