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柳をめぐるタイムトラベル#1ー徳竹行李店の思い出ー

はじめに

本企画「柳をめぐるタイムトラベル」は、中野市の杞柳産業(註1)に関わっていた方や、そのご家族の方へのインタビューを記録し、杞柳(コリヤナギ)栽培の情報やかご編みの歴史・技を多くの人と共有するためのプロジェクトです。

今回、お邪魔したのは中野市西条にある徳竹デザイン事務所。デザイナーの徳竹孝之さんのご両親は長年、柳行李や椅子(スツール)を製作し、問屋に卸す仕事に携わっていました。

徳竹さんのお母さま、ゆきいさんは大正14(1925)年生まれ。お父さまの之さんは大正10(1921)年生まれ。今もご存命であれば102歳と108歳になります。

徳竹さんと筆者は平成30(2018)年頃に仕事のご縁で出会いました。徳竹デザイン事務所のWebサイトに「信州の柳行李」というコンテンツがあったことから、5年以上、杞柳に関する情報交換をこまごまとさせていただいています。

令和5(2023)年12月、徳竹さんが用意してくださった柳の写真を拝見しながら、ご両親の仕事のことや、ご自身の柳との関わりについて、思い出をお聞きしました。

杞柳栽培の一年

ーー今日は写真をたくさん用意していただき、ありがとうございます。まずは柳栽培の1年について教えてください。

徳竹孝之さん(以下、徳竹):うちでは須賀川(山ノ内町)の業者さんから苗を皮付きの状態で買ってきた。それが秋かな。秋口に買って下(中野市)へ落としてきて、このへんだと小田中あたりの田んぼを借りて、そこへ挿し木をする。稲作を休んでいる時期だから。そこに置いておいて春に皮を剥く。そういう工程。

柳を挿している中野市小田中区の田んぼ。冬に寝かせている状態か、春の皮剥き前か(*)
奥に見えるのが皮付きのままひと冬を越えた杞柳。はさがけにされたのが皮を剥いた白柳(「しろ」とも呼ばれる)。作業の合間のひとこま(*)

ーーこの写真(上)を見ると、働いている方はご家族以外にもいらっしゃったんですね?

徳竹:一緒に手伝ってくれる人は近所のおばちゃんとか、女性。皮剥きの時期だけ1日いくらとかで来てもらっていたんじゃないかな。

自宅庭での皮剥き作業。右側の地面に高く積まれているのが剥いた皮(*)
皮を剥いた後に水でゴシゴシ洗い、灰汁を落として乾かす。左下に見えるのが柳を洗う場所だろうか(*)
太さ・長さごとに束ねられた白柳(しろ)。多くは問屋に販売していた。伝統工芸の豊岡杞柳細工の産地である兵庫県豊岡市に送られていたかもしれない(*)

徳竹:こっち(上の3枚の写真)は、柳を剥いて、洗って、干す。そういう作業だね。灰汁があるから、剥いた後に水槽で洗って灰汁を落として、干す。軍手をしていても黒くなってしまうほどの灰汁だったね。皮を剥く以外に柳の高さ(長さ)を揃える作業もあるんだよね。高さを揃えて、高さごとに挿していくんだよ。ドッと(田んぼに)入れて、このへんでつかめるやつは長いやつ。このへんでつかめるやつはそこそこのやつ。そんな感じで適当に。田んぼを空けなくてはいけないので、春になったら全部回収してくる。水田が始まる前に。花見なんてやってられなかったね。

ーー家で柳の仕事をしていたことは、いつぐらいから覚えていますか?

徳竹:小学生くらいからかな。柳の皮剥きっていう作業は小学校から帰ってきて小遣い稼ぎでやる人もいるので。1束10円とかで。私も当然やらされるというか、やっていたね、無償で(笑)。遊び程度だけど、実際に手伝いだしたのは3年生ぐらい(昭和40年代半ば)かな。

ーー皮剥きっていうのは、実際どんな感じですか? 力加減だったり、剥く時のコツだったり。

徳竹:春に田んぼから抜いて車で家まで運んで。皮を剥く金具に柳を挿してしごく。太いやつは十文字に割れるから、それを反対にして、そこから引き裂くという感じ。割れてピロピロと皮が剥けていく。長いやつは1回引いて、もう1回引く。短いやつは1回で剥けちゃう、細いからね(註2)。

柳皮剥き器(右下)をはじめとする加工道具は中野市立博物館の常設展で見ることができる

ーー細いやつと太いやつと。長さでも分けて、太さでも分ける。

徳竹:そうだね。ただ、柳行李だとそんなに太いのは使わないと思うのだよね。皮を剥いた柳は全部自分で使うわけではなくて、ほぼ問屋さんに売る。自分で作る分は、ある程度部品としての長さにして取っておいたんじゃないかな。

ーー日曜日は休みなどというのは決まっていたのですか?

徳竹:ないね。どんどんやらないと終わらないと思うから。日曜日なんて関係ないよね。日曜日のほうが子どもが休みだからさ。お手伝いしないと。強制ではないけれども。

ーー「手伝ってほしい」と言われていたわけではなく?

徳竹:特にはないけど。日曜日にポツンと家にいたところでしょうがないって、ついて行ったり。姉も、家族全員で行く。田んぼで皮を剥いている時もあったからね。子どもの時は遊びにいきたい時にいけなかったな。

分業で仕上げた柳行李

ーー皮剥きが終わったら、材料を揃えて問屋さんに売って、夏とか秋は編んでいる。また秋になったら仕入れに行って。編む方は、ところどころで分業で専門に請け負ってくださる方がいたということですね。

徳竹:そうだね。分業だね。

ーー基本的にはご両親が2人で、徳竹行李店という名前でやっていたのですね。

徳竹:昭和47(1967)年くらいまで、ここ(現徳竹デザイン事務所の場所)に住んでやっていたからね。その時は柳行李がメインだった。大熊、延徳(ともに中野市)の方でカネコさんという人がやっていたのは知っているけど。なかなかいないと思うんだよね。あっても3、4軒とか。鼓椅子もやっていたりしたけど、ここに住んでいる時は柳行李を仕上げていた。最初はどこかの工場で作っていたのを覚えていて、それから柳行李を家で作業するようになったというのも覚えている。でも、今の家を作ってからはやっていないんだよね。家を建てたのは私が15歳の頃、昭和47(1967)年くらい。そのころには柳行李は辞めていて、椅子の方になっていたかな。

縁を付ける前の柳行李が天井まで積まれている。徳竹行李店とタッグを組み、柳を編んで箱状にする仕事を請け負っていた中野市西条の玉木直治さん(*)

徳竹:この男性は西条のお宮の下にある玉木さんという床屋さんのうちのおじいちゃん、玉木直治さん。3、40年前の写真かもしれない。この写真はうちのお父さんが撮ったらしい。

行李を編む玉木さん。「抑え木の上に乗り、柳の目が1本1本交互になるように指で柳を上下に分け、麻糸を通して編みます。麻糸の張り具合や柳の個性を見極めながら行うことが重要!(豊岡市観光公式サイトより)」(*)

徳竹:箱状に編むところまでを玉木さんがやって、うちの仕事は、お父さんが箱状に編んだものに縁を作って、お母さんがズックを縫い付けていくという工程だったね。

ミシンで柳行李に麻のズックを縫い付ける徳竹ゆきいさん。このミシンは柳行李を作らなくなってからも、ずっと家に置かれていた(*)

籐を編み込んだ丈夫で使い勝手のいいスツール

徳竹デザイン事務所の2階の一角には、柳行李や椅子が積まれた場所があり、素材となる杞柳の束のほか、徳竹さんが描く油彩画のキャンバスなども所狭しと置かれています。

籐のスツールは温泉の脱衣場で目にするような、シンプルで使い勝手のよいデザインのもの。作りかけのものもあれば、製品として完成しているものもあり、筆者も何点か購入させていただきました。

徳竹デザイン事務所に保管されている柳行李と籐のスツール

ーー徳竹さんの椅子は「温泉とか銭湯とかで見たことある」という人が結構います。そういうところに卸していたんですか?

徳竹:うちは長野の問屋さんに卸す。直接売っているのはなかったと思います。作って卸すrだけという感じ。

ーー籐は輸入のものを仕入れていたということなんですね。

徳竹:問屋さんから仕入れる。その残ったやつが、今もいっぱい残っているわけです。うちでは使ったことのないような材料もあるのは、どういうことなんだろう。

徳竹行李店で製作されていた太鼓椅子(左)と鼓椅子。丸のままの籐や籐ひごなどが使われている

ーー椅子のデザインはオリジナルのものだったのでしょうか?

徳竹:昔からあったんだろうね。元は誰が考えたのかわからないけど。古い木型は残っていますね。自分(之さん)が考案したわけではないんじゃないかな。作っている人がいて、こういうものがあると教わって、やっていたんだと思う。他にも作っている人がいたんじゃないかな。

鼓椅子を制作する徳竹之(すすむ)さん(*)
鼓椅子に釘を打つ之さん(*)
小学生が製作の様子を見学に来たこともあった(*)

ーー鼓椅子を作る写真は徳竹さんが撮っていたのですか?

徳竹:いえ、たまたまどこかの学校の生徒が見学に来ていた時に、付き添いの先生が撮ってくれたのをもらったんじゃないかな。80年代ぐらいにはテレビの取材が来たこともあって大騒ぎになったみたい。「ズームイン!!朝!」という番組で。 テレビで紹介された頃は作っても作っても足りないぐらいで「もっとください」と問い合わせが来たみたい。問屋さんに電話が殺到して「電話が壊れた」と(笑)。

取り付ける前の座面部分。座面は他の方に発注していた。台座を作るのは之さん、座面を編み込む作業はゆきいさんの担当だった

徳竹:2人とも全部やるんだろうけど、お母さんの方は台座に座面を編み込んでいく感じ。細かいところ。結構難しいんだよな。私も座面が壊れて付け替えたことがあったけど、大変。

ーー徳竹さんも編めるんですか?

徳竹:いやいや。(座面を)まとめて作ってもらってあったのを使って。平べったくなったところ、内側に入れながら締めながら……。バンクのついたところなんかすごいね、細かい作業で。力も必要だし、もう手が足りないから足を使って。

膝で押さえながら座面を編み込む之さん(*)

「いろいろなことをしながらここに辿り着いた」

ーー之さんは、どうして柳の仕事をされていたか、または、どういうきっかけで始めたかなどを聞いたことはありますか?

徳竹:当時、中野市の西間地区に鈴木さんという家があって、従業員を抱えて大きくやっていた。うちのお父さんは丁稚奉公で小さな頃から行っていたみたいです。そこで多分勉強して、仕事を覚えて。鈴木さんは柳行李専門。当時は杞柳細工をやる人もいれば、竹細工をやる人もいた。

ーー今でいう中学生くらいからでしょうか。ご両親は中野市のご出身ですか?

徳竹:小田中(中野市)の生まれだね。うちのお父さんのお父さんは須賀川(山ノ内町)から小田中に来た。うちのお父さんは三男。長男は家を継いで、次男は吉田(中野市)で小物の細工物をやっていたみたい。

ーー須賀川だと竹細工が有名ですが、親族に竹を編んでいた方もいたのでしょうか?

徳竹:竹は聞いたことがないね。農業をやっていたのかな。

徳竹之さん。写真の裏に「平成2年4月」とメモ書きがあるので69歳の年(*)

ーー之さんは柳行李と農業の兼業ではなく、柳一本でやっていたんですか?

徳竹:なぜか一時、機械旋盤、金属加工をやっていたのが記憶にある。いろいろなことをしながらここに辿り着いたのかな。金属加工をやって、結局元に戻ったのかな。

ーー柳も須賀川の方から買っていたのですか?

徳竹:あっちの方に行っていたね。うちでも一時株を植えてやっていたことがあったけど。上(山ノ内町)で作る人がいなくなってしまったのかも。私が30歳くらいの時(1987年頃)だったかな。

ーー自分で栽培した柳の出来具合はどうだったんでしょう。誰でもすぐに育てられるものなのでしょうか?

徳竹:そんなに手はかからないと思うけど、春は毛虫がたかるから(田んぼに挿した柳の)消毒作業が大変だったな。

「この仕事? 死ぬまでやっていたよ」

形や大きさもさまざまな柳行李

ーーゆきいさんは之さんと結婚してから杞柳細工を始めたのでしょうか?

徳竹:そうだよね。ここに来てから。一緒にやっている時期はそんなに長くはないんじゃないかな。結婚してすぐではないと思うんだよね。いつからなんだろう。

ーー組合みたいなものや、柳の関係の人たちの集まりがあったかなど覚えていますか?

徳竹:あったのかな。結構柳を編んでいる人がいたからね、中野市で。扱っている問屋さんや仕入れて売るという人もいたし、ニシボリ商店だとかさ。(中野小)学校の下にハヤシヤさんとか。あの時はこういうのを扱っている問屋さんもあったり、お店もあったり、作っている人もいたりしてたんだよね。きっと。

ーー徳竹さんが後を継ぐという話は?

徳竹:うちはないね。いや無理だよ(笑)。大変なのはお父さんもわかっていたのでは。

ーー大変そうだなと思ったところは特にどんなところでしたか?

徳竹:寒いところでやるわけだよ。秋だって上(山ノ内町)から刈ってきたのを、田んぼに挿す前に(枝の)選り分けを暗くなるまでやって。まとまったら挿しにいくという感じ。その作業は大変だと思う。力仕事だし。根が詰まる単純作業だし。柳の苦労話はしていなかったけど、小さい頃に丁稚奉公に行っていた頃の苦労話は聞いていて。仕事上でもいろいろあったと思うけれど、やっている本人は(杞柳細工を)嫌々やっているわけではなかったと思う。

ーー作ったりするのが好きな感じだった?

徳竹:そうだね。

玄関前に整然と重ねられている太鼓椅子。右下の水槽は柳を洗うところ(*)

ーーテレビに出てたくさん注文が入ったのは、うれしかったでしょうね。アンティークや古いものが好きな人から、徳竹さんの椅子は今でも人気です。何十年も前のものだけど、かわいいし、軽いし、丈夫だし。

徳竹:それはうれしいよね。いろいろな人が取材に来てくれたり、小学生が見学に来てくれたりは、きっとね。

ーーご両親は何歳ぐらいまで柳に携わっていたのですか?

徳竹:この仕事? 死ぬまでやっていたよ。病気になってできなくなって、ちょうど春の5月頃に亡くなったんだけど、その1カ月前くらいから春の作業をやっていたわけだから。柳を洗って、干して、束ねる作業までなんだけど、束ねずに逝ってしまった。干したまんま逝ってしまったから。(残った柳は)しょうがないから自分で見様見真似で束ねて、問屋さんに見てもらって、買ってもらった感じだよね。死ぬまでやっていた。

ーーおいくつぐらいで?

徳竹:平成9(1997)年に76歳で亡くなっている。

ーーお母さんはお父さんが亡くなった後も続けていらっしゃったのですか?

徳竹:続けてやれなかったね。その後お母さんは腰を痛めてしまって。その年に亡くなってしまった。お父さんは春の5月に亡くなって、お母さんは11月に。「仲良かったんだね」と人は言うね。

ーーそれまでは大きい怪我や病気はなく?

徳竹:ないんだよ。戦争に行っていたから、それの後遺症的な身体の傷んだところもあったんだけど、すこぶる健康でいたと思う。1カ月で逝ってしまった。医者から言われて覚悟ができていたみたいだけど、おふくろの方はショックだったかな。後を追うように逝ってしまうわけだから……。

之さん・ゆきいさんが手がけた鼓椅子。高さ違いが3種類ある

ーー今でも徳竹さんのデザイン事務所の2階に作りかけの行李や椅子を残していますね。

徳竹:ずっと置いてある。誰かに利用してもらえれば一番いいんだけど。柳行李にしろ椅子にしろ完成品ではないし。完成品もあるんだけど色褪せてしまっていて。使えないことはないのだろうけど。とっておきたいという気持ちはあるんだけど、ただ置いていても仕方がないし。(中野市立)博物館には製品は寄贈していないけど、ミシンは寄贈したみたいだね。お父さんか、それとも誰かが。

ーー私の友人は座面のない鼓椅子がいいと買ってくれたのですが、「中に照明を入れて使っている」と言っていました。ほかにも欲しい方がいると思うんです。また機会があったら紹介させてください。徳竹さんのホームページにも柳行李のことを載せていましたが、なぜあのページを作ろうと思ったのですか?
https://www7a.biglobe.ne.jp/~toku-d/(リンク先ページの「伝」をクリック)

徳竹:こういうのもあるよと。良かったらどうぞ、という感じです。

当時の空気を伝えてくれる油彩画「はたらくひと」

徳竹さんが描いた「はたらくひと」。皮を剥くのは之さんとゆきいさん

今回の取材の最後に、徳竹さんに初めて見せていただいて驚いたものがありました。50号サイズの大きな油彩画です。もともと之さんも絵が好きで水彩を描いており、徳竹さん自身もイラストを描くのが好きだったので、22歳の時に油絵を習い始めたそうです。徳竹さんが描いたその絵には、柳の皮剥きをする家族の様子が描かれていました。

「中野市中央公民館で山田晃さんという先生がやっている中野美術会というのがあって、初めて油絵というものを知って、やってみようと。まだ油絵を描き始めた頃だったから、特別描くものがなかったのでね、身近なものを描こうかなと。サイズは50号、北信展に出した作品かな」(徳竹さん)

25歳の徳竹さんが唯一描いた柳の絵。青々とした皮や白く輝く枝の美しさとともに、5月の青空の心地よさを感じながら作業をする3人が描かれています。その背後には大地に挿された柳の枝が高くそびえています。皮剥きを待つ柳は1本1本細かい筆致で、染み入るように絵の具が塗り重ねられていました。この絵が描かれた1980年代には、中野市で柳に携わる方たちはかなり少なくなっていました(註3)。そんな背景を考えると、之さんとゆきいさんもさまざまなことに思いをめぐらせながら、この作業をしていたのではないかと思います。

「1枚だけでも描いておいて良かったよね。もっと描いておけば、記念や資料になるのにね。でも、それだけ柳が染み付いているんだね。自分の体験として染み付いているんだよ、生活の一部として……」(徳竹さん)

徳竹孝之さん


註1 「杞柳は、こうりやなぎとも呼ばれるように行李などのかご類を編む原料である。柳の一種で、株から発芽した徒長枝を春先に刈り取り、皮をはいで原材料になる。水害に強いので、常習水害地であった延徳沖の湿田地帯を中心に、一時は畑地にも栽培されてきた。中野市の発足当時(昭和29/1954年、中野町を中心に8カ村が合併して中野市となった)80ヘクタールを超えていた。その後は若干減少したが(昭和)36年から再び増反して、昭和37年には100ヘクタールと一躍増加をみせたが、それ以降減反の一途をたどり、51年現在では7ヘクタール、45トンを生産するだけになった。このような面積の変動は、杞柳の需給関係が確立されておらず価格の不安定が大きな原因であった。例えば、37年のピーク前は3.7キログラム当り400円したものが、38年には160円にも下落するなど相場の変動が激しかった。」
中野市誌編纂委員会編『中野市誌 歴史編(後編)2』中野市発行、1981年、P785、()は著者註

註2 杞柳の栽培から加工までは豊岡市観光公式サイトに詳しい。中野市の生産者・加工者は、最盛期には豊岡市から指導者を呼んで、栽培や加工の手ほどきを受けていた。

註3 「このころ(昭和40年前後)延徳沖の土地改良が完了したり、えのきだけ栽培が延徳地区を中心に普及して、杞柳加工する農家が急減したことが杞柳栽培の衰退に拍車をかけた。現在延徳周辺に杞柳田が若干みられるのは、老人など加工従事者のいる農家の自家原料用であったり、市内の問屋からの委託によるものにすぎなくなっている。春先、柳が水分を吸い上げるころ刈り取られ剥皮作業が盛んであったが、春を告げる風物詩がまた一つ消えようとしている。」
中野市誌編纂委員会編『中野市誌 歴史編(後編)2』中野市発行、1981年、P785

(*)写真提供:徳竹孝之さん

文・写真:水橋絵美

※本事業は中野市中野のチカラ応援事業補助金を活用しています。

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