「生きている幸せ」を学ぶ

しばらく前から休み休み読んでいた『赤毛のアン』の最初の巻を、お正月中に読み終わった。
特に前半が好きである。
アンの瑞々しい感性に何度も声を上げて笑い、心の洗われる思いがした。

「なんて素晴らしい日でしょうね。こんな日に生きているというだけで幸せじゃないこと? それを逃すんですもの、まだ生まれていない人がかわいそうになっちゃうわ。むろん、その人たちにだって素敵な日は巡ってくるでしょうけれど、でも今日は二度と来ないんですもの。」

こんな思いで毎日毎日を生きられたらいいと思う。
健全に育った場合、子供時代に人間はこんなふうに感じるものなのだろうか。

一泊の予定の子供が二泊した。
夜、布団の中でお話をする。
最近はアンパンマンと機関車トーマスに夢中なので、私も新たに仕入れた知識を駆使してお話をしてあげる。

暗闇の中でまどかは私に顔を近付け、目を輝かせて聞き入っている。
(ほんとに幸せなんだね、生きていることが…)
と思う。
寸前まで笑顔で、ふと気付くと寝息を立てている。

自分もこんなふうだったのだろうか、と思う。
それは分からないが、この30年くらいは絶対にそうではなかった。
最近、私は子供の心を学び直している。
少女時代のアンのように弾けるほどにではないが、静かな幸せを毎日感じている。
でもそれは「幸せになったから」ではなく「幸せに気付くように努力するようになったから」だと、自分では思っている。

幸せは誰かがくれるものではなく、見出すものであり、または聞こうとすると聞こえる音のようなものなのだ。
鳥の声に似ている。
鳥は割といつも鳴いているのだけれど、考え事や不満に夢中になっていると気付かない。
幸せも、そんなものではないだろうか。

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