自己紹介についてあれこれと書いていたら、自己紹介は自分との戦いだったことに気がついた
自己紹介が大好きって、言っている人は世の中にどれくらいいるのだろうか。
私は苦手である。何を話したら良いのかわからない……というのが本音だ。
大体、初めての人に自分のことを表面的な部分だけを話したところで、何がどう伝わると言うんだと私は思う。
じっくりと時間をかけて話をしても、やっぱり伝わらない人には何を言っても伝わらないのだ。
サークルや集まりがあるときなんかも「私は、絵を描くのが好きです」と言ったきり、次の言葉なんて出てきやしない。
いろいろ考えしまうのだ。ここに集まった人たちの中で、私の絵に興味のある人がどれくらいいるのだろう……急に絵を描くのが好きです、なんて大告白されても、聞いている人だって何をどう受け取ったら良いのかわからないと思う。
だったら、もっと自分のことを明確に話しをしたら良いのでは、なんてことを客観的に思えるのは実際に自己紹介の場にいないからだ。
いざ、自己紹介をしろといわれたときには、多分、私の中ではどの自分を出したら良いのかと壮大な脳内会議が繰り広げられることだろう。
結果的に一番無難なところで、絵を描く人、なんて話をしてしまうのがオチである。
noteでも、しれっと絵を描く人なんて、あいまいな形で自己紹介してしまい、またやってしまった……と後悔している。だからこうしてもまた、もう一度自己紹介についてチャンスをもらえまいかと書いてみた。
もちろん、絵を描いているのだから絵を描く人で間違いはない。でも、自分を表す言葉はもっと違うものだろうこともよくわかっている。
こうして書いている文体も今までとは違う。誰もが持つ、人から愛されたいという幻想に囚われた結果、周りの人たちの様子をうかがいながら発言してしまうのだ。
たとえは違うが、初めての知らない土地で銭湯に入りに行くようなものだろう。地域の小さな銭湯ほど、目に見えないしきたりがあったりする。
知らない土地で無防備になった姿でお風呂に入るのだ。もう隠すことは何もできない。しかも、地元でも何でもない人がズケズケと風呂につかろうとすると、地元民の視線が痛いほど刺さる。自己紹介は私にとっては、そういった経験に似ているのだ。
考えても見てほしい……タオル1枚で、常連さんが場所取りなんかをしている洗い場を様子を見ながら、使っても良いのかな、大丈夫かな、それとどこまで体をゴシゴシ洗えば、湯につかっても許されるレベルになるだろうと考えながら、銭湯に挑む気持ちは視線の痛い風呂につかった経験のある人にしかわからないだろう。
完全に知り合いもいない、横隣の人も何を思って何を考えているのかわからない状況の中で、自分の話をするのだ。
銭湯だって、タオルの一枚で大事なところは隠せるだろうに、自己紹介は反対にどこまで服を脱いで自分をさらけ出していくのかにかかっている。
あいまいな自己紹介だと周りの印象も薄く、反対に自分のことを全部見せるかのようにして服を全部脱ごうとしようものなら、一か八かのギャンブルだろう。
伸るか反るかで、ヒーローになるのか、はたまたいたたまれない気持ちになるのかのどちらかだろう。
それだけ、自己紹介は私にとって戦場なのだ。
こうして、書いているが、気持ちの中ではあとはどうにでもなれ、て気持ちで満載である。
別にこの内容が多くの人に見られているなんて、おこがましい気持ちはない。問題は人の数ではないのだ。今、私は地域の銭湯でアウェーを覚悟の上で書いている。
自己紹介といいつつ、自己紹介はせずに自己紹介について話をしてしまったが、実のところ本心を伝えられたことで私はホッとしている。
読んでくださった皆様へ感謝の気持ちを伝えたいです。
ありがとうございます。
これからもよろしくお願いいたします。
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