雑踏の中の自分と存在のある自分。服。

渋谷。
miyashitaパーク。
ベンチに腰掛ける。

スクランブル交差点ではないけれど、南側にも結構大きな交差点があり、青になるたびに忙しなく歩いていく人、ゆっくりと、ただ確実に歩いていく人などを上から座って眺めている。
先程は自分もその1人として交差点を歩いていたんだなぁと思い出し、それが傍目にはどう映っていたのだろうかとふと想像する。
今自分は2人しか座れないであろうベンチに腰掛け、自分にとって人生を大きく変えた人と待ち合わせがてら座っているが、そんなことは誰にも分からない。同じように歩いている人がどんな人で、どんな思いで今その交差点を渡っているかなんで、私も含めて他者には分からないと思う。
…旗でも掲げて渡ってたらわかるかもしれないけれど。

元来他者の目は気にならない性分だと思っていた。
「人は人、うちはうち。」
親によく言われ、そんな中では多分に自由にさせてくれたなぁと思う。
好きなことに精一杯の愛を込めて、ここまでやってきたが、その「好きなこと」の中になかったものについては学ぼうともせずに、その時に教えてもらったり触れたりした時のみ強烈な興味で学んでいた。

ただその時だけ。

それは特に服に顕著だった。
「衣・食・住」の一つにも数えられるほど、社会や生活になくてはならない服について、どうしてものめり込めない自分がいた。3000円を超える服については高いから悩んでしまい、一年に2着服を買えば良いほう。Tシャツやジーンズなんて小学生の時のを未だに着てしまう。長持ちさせることができるのもなおさらを安い服でいいじゃん。」に拍車をかけていた。

服が好きな人に出会い、今まで知らなかったお店に行き、「高いなぁ」と思いながらも買ってみて着出してから少し変わったことがある。
よく服を通して「自己表現」をと言う人がいるが、多分その言葉がどうも自分にはしっくりこなかったのだと思う。相手にどう思われたいか、=対外への自己のイメージ付け ではなく、他人への敬意、=その人に会う時に個人の思いとしてこの服を着て喜んでもらおう という気持ちが生まれた。
それが果たして正解なのかどうかは分からないが、この気持ちにマインドセットしたおかげで服の選び方も少しわかってきた気がする。

菅田将暉みたいな、りゅうちぇるのような、服で自己表現するのも憧れるけども、まずは雑踏の中の1人ではなく、自分を好いてくれる人に報いるような自分でいたい。

そんな取り止めもないことを書き終えたら、待ち合わせ場所の連絡が来た。誰かを見つけるために雑踏の中に入ることにしよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?