見出し画像

劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer 感想

平成仮面ライダー最終作の感想は、一言で言うとEDタイトルでもある「パーティ」。締めくくりに相応しいお祭り作だった。


仮面ライダーという作品は、特に平成においては、子ども向けヒーロー番組の枠を超えて、数多のメディアミックス、コラボレーション、ムーブメントを生み出した。そんなIPとしての魅力は、その時代その瞬間の勢いに乗ってきたからこそ生まれたものだ。


大規模で伝統的な作品シリーズでありながら、仮面ライダーは常に実験的な手法で様々なコンテンツを生み出してきた。例えばテレビシリーズは、番組開始時点で最終回までの内容は決まっていない。作品を作りながら生まれてくる現場のライブ感を元に、手探りで次の展開を考えていく。役者がこなれてくると、役者の個性に合わせて脚本も当て書きされてくるので、キャラが変わることも少なくない。
「今やれることをやる」というスタイルゆえ、平成ライダーというブランドは確固たる形をもたず、いつもファンの期待や想像を良い意味で裏切り続けてきた。劇中ではそれを「不揃いさ」と表現していた。
設定も世界観もバラバラ。あってないようなアイディンティティ。それに対して主人公ソウゴは「不揃いだから良いんじゃん」というシンプルかつ説得力のあるアンサーを我々に提示した。


後半の展開は、ファンの常識と想像を凌駕する「不揃いさ」の応酬。
製作陣の度量の広さというか挑戦的な試みで生まれた多くの平成ライダー達を、メタもネタもてんこ盛りでぶつけてくる。劇場内は、応援上映でもないのに大人も子どもも大喝采。ここまで見せつけられては、不揃いでも何でも関係ない。
例えばディズニーのような、丁寧に守られたブランドイメージ、統一された世界観とは真逆の位置にいるのだろう。平成ライダーの魅力は、雑多で不揃いだけれども、その瞬間瞬間の盛り上がりが積み重なってできた歴史そのものと言える。


かくして時代は令和に変わり、新ライダーのゼロワンが控えている。平成ライダーと変えてくるのか、変わらない部分は何だろうか。仮面ライダーへの興味は尽きることがない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?