こんばんは。大腸がんの治療のためオストメイトになった眞弓さんがみんなに伝えたいことをおしゃべりする「眞弓さんといっしょ!」。前回は抗がん剤のお話をしましたが、4回目の今回は・・・「もうね、話すこと決めてるんだ!」という眞弓さんの提案で8月某日、「病名告知は患者家族にとって有効か」というテーマで告知について話し始めました。
が、気づけば、いつものように脱線、最後は真夏の夜にピッタリの”あの話”に・・・・超大作になる予感しかないので、前編後編にわけてお届けします。
眞弓さんは、単刀直入にこれまで見聞きしてきた、また自身も経験した「告知」について話してくれ始めました。
実は眞弓さん、37歳のころ、しかも妊娠中に、人生で初めて「余命」を”宣告”されていたといいます。診断をうけた、”骨髄異形成症候群”は、血液細胞のもとになる造血幹細胞に異常が起き、正常な血液細胞がつくられなくなる病気。医師から告げられたのは、治療をしなければ「1年」という思いもかけない”余命”でした。
胎児が2,000gになったら、帝王切開で出産し、治療するという方針を決定。妊娠期間中、眞弓さんは、とにかく2,000gまで子供を育てる事を目標にしましたが、管理入院期間に患者が次々他界していくのを見て恐怖でいっぱいだったそう。自分の命、子供の命。当事者でないと想像できない、とんでもない不安との闘いだったと思います。
結局、1,000gになった頃、眞弓さんは破水し、局所麻酔で出産することになります。多くの医師や看護師、おびただしい数の機器・・、第1子目とあまりに違う大掛かりな光景に驚いたそう。そして出産後に意外なことがわかります。
育児休暇中に、MDSの経過観察のため大学病院に数回通いますが、赤血球の異形傾向も減少し、「治療もいらない状態」といわれるまでに。市役所にも通常業務に復帰することができました。そして47歳のとき、地域の保健福祉を充実させるため、役所を退職、新たな事業の立ち上げに奔走します。ところが、その2年後のことでした。
結局、2度目の”余命”を告げられたスキルス性胃がんについては、「できることがない」と言われながらも”余命”と言われた半年、何事もなく過ぎていきました。その後も眞弓さんは地元・札幌を拠点に地域のために精力的に働くとともに、一方では移ろう季節を大切にしながら、ご家族と豊かで穏やかな日常を過ごしていきます。
そんな暮らしに異変が起きたのは、2019年のこと。当時56歳だった眞弓さんは倦怠感を自覚しました。当初は年齢のせいかなと様子見することしたそうですが、そのうち、出張の際の空港内移動でも休み休みの状況となり、やはり医療機関を受診することを決意。しかし、実現しないままコロナ禍に突入、さらに受診が難しくなったといいます。
翌年12月半ば、背部痛と横隔膜の辺りの痛みが強くなり、「誕生日前にスッキリしよう」とクリニックを受診。「胆石のため、手術が必要」と消化器科病院を紹介され、翌年1月に夫と受診すると、「大腸がんstageⅣ」という診断と、「治療しないままだと余命3年」という告知を受けることになりました。ただ、このときの眞弓さんの告知の受け止めはこれまでとは少し違ったそうです。
「今日すぐに入院」と言われたものの、入院後の家族の食事や飼っている犬猫の世話など家の事が気になり、数日後の入院を約束してその日は帰宅したそうです。そして、このときから今に至るまで、眞弓さんは抗がん剤治療にも挑み続けています。
保健師として医療の知識や医療現場との接点も少なくなかった眞弓さん。そんな眞弓さんがそこまで病気が進むまで診断につながらなかったのはなぜなのか、友人であり後輩としてとても悔しく思っているのですが、だれかのためにいつも奔走して自分のことは後回しにしてしまいがちであっただろうこと、さらに今回は、コロナが大きな大きなハードルになっていたのです。そして、今思えば受診するのがこわかったかもしれない、の言葉。同時に、眞弓さんの経験を話していただく中で、告知を受ける側が背負う、物理的、心理的な負担の大きさもはじめて知りました。それはその立場にならないと到底わかりえない感覚でした。
ちなみに、21年の記事などによると以前と異なり、基本的には患者本人に告知することが一般的で、患者本人が受け止めきれないような場合には家族が同席をすすめられたり、家族だけに告知されることなどもあるとかかれています。決められた告知の方法があるわけではなく、病院によっても異なり、患者の希望を含め様々なことを考慮して「適切な形」で行われるのだそう。医療者の人格、伝える技術、患者との信頼関係、患者とその家族の関係など、様々なファクターが複雑にその後の患者の人生に影響するのだろうことが想像されました。
そう、眞弓さんは、医療者からは「できることがない」といわれて以来、悔やんでも悩んでも仕方ないことはおいておき、ポジティブに人生の選択をしていくことで、何度も何度も”余命”を塗り替え続けてきています。そしてそれを可能にしてきたのは眞弓さんの性格なのだと私はずっと思っていたのですが、眞弓さんの答えは「ポジティブになるしかなかった」という意外なものでした。そして今回も最後はいつもの眞弓さんのペースに・・・
信じる!?!?
この話をきっかけに、眞弓さんが体験した様々な不思議体験についてのおしゃべりが始まるわけですが、続きはまた次回!
もしよろしければみなさんの経験などもコメント欄でご共有いただけたらありがたいです。
※この文章はあくまで眞弓さんの経験したことを聞き取ったものであり、20年以上前の時代の話も含まれます。また、できることがないと言われたことはあっても、眞弓さんが標準治療を拒否したことは一度もありません。通院などをしている方は自己判断をすることはなく、必ずご自身の主治医に相談してください。
※この文章の執筆は筆者個人の活動であり、所属する組織とは関係ありません。