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旧酒断ち日記

8月16日(月)

メキシコ人の友人、Jとの闘いによる足裏の負傷(筋肉、臓器に達する創傷処理 直径5cm以上10cm未満)とお盆の長期連休の影響で、2週間サボっていた自炊を再開する。

夕食以外は決まったメニューで、朝は炊きたてのご飯を前日に仕込んだ煮干し出汁で作った味噌汁とちりめんじゃこ、漬物、温泉卵でいただいて、昼は余ったご飯と漬物、鯖節を小さなタッパに詰め込んだ質素な弁当を、熱い緑茶で流し込む。

夕食は鳥もも肉の細切れを生姜・ニンニク・酒・砂糖・醤油で煮焼きして、小松菜・きくらげ・しめじを塩でさっと炒めたものを付け合わせ、朝食と同じくご飯と味噌汁でガツガツと食べた。

実に美味い。
毎日スマホとにらめっこしながら一食1,500円もかけてウーバーイーツの博打飯を食っていた毎日が馬鹿らしくなってきた。

僕が今日こうして自炊する幸福をかみしめることができたのは、食材の買い出しに行ける健康な身体と、計画通りに進む平穏な毎日があるおかげである。

2週間前、深夜の路上で唐突に「日本とメキシコ!オリンピックをしましょう!」と言い出して僕を先述の負傷に追い込んだ(僕が勝手にこけただけだが)Jはきっと、僕に健康で平穏な日常の幸せを教えてやりたかっただけだったのかもしれない。

ありがとう、J。


8月17日(火)

友人にオススメされてスパイストラベラーという番組を観る。

ドラゴンアッシュのドラム桜井さんとBiSHのセントチヒロ・チッチ(とてもかわいい)の2人がMCとなって、東京のスパイスカレー屋さんを紹介しながら実際に料理も行う番組である。

ドラゴンアッシュの桜井さんが夏フェスでスパイスカレーを出店する素晴らしさを熱く語っているところで、以前本屋であったイベントで出席者が音楽とカレーの親和性について語っていたことを思い出す。

彼の言い分によるとこうだ。
「音楽ファンにスパイスカレーファンが多いことには理由があるんです。音楽がドラムス・ベースといったリズム体を土台にし、メインディシュのギターやボーカルを調和させるように、カレーも玉ねぎやトマトといったリズム体の上に、スパイスというギターソロが乗っかって、ボーカルである具材を調和させるんですよ…。カレー作りとは曲作り…、曲作りとはカレー作り…、なのかもしれませんね…」

正直意味がわからなかったが、いい大人なのでウンウンと聞いていた。
しかし確かに、僕の周りの音楽ファンにスパイスカレーファンが多いことは確かである。

カレーと音楽に関する文化的考察ができる方、納得できる回答を教えてください。


8月18日(水)

名古屋の感染状況がきな臭くなってきたため、週末に予定していたDJや、友人との会食をキャンセルする。

感染者数は過去最多を更新し、ニュースの中の状況は緊迫しているものの街の状況はあまり変わっていないように見える。

その要因は、遊び歩くことの”非犯罪化”であると、僕は思っている。

社会学者のデュルケルムが「我々は犯罪だからそれを非難するのではなく、我々が非難するからはそれは犯罪となるのだ」と述べたように、犯罪であるか否かの線引きは法律の中ではなく、世間の態度の中にある。

最初に自粛が始まった時に、遊び歩く人たちに対して浴びせられていた非難は犯罪者へのそれであったが、今はどうだろう。

個々人の価値観はある程度尊重されるべきだが、右か左か集団で同じ方向を向かないこともまた辛い。


8月19日(木)

職場の人に「スヌーピー好きなんですか?小物全部スヌーピーですよね」と言われたので、「スヌーピーというよりはピーナッツが好きなんですよね…。世界観というか思想というか哲学というか。漫画を読んでいるとハッとする名言に出会えたりするので…」と答えたが、本当のところピーナッツではなくスヌーピーそのものが好きである。

なんならスヌーピーよりも、弟のアンディの方が好きだったりする。

9月29日(水)

朝、外階段に置いた鉢植えの、名前も知らない木の青々としていた葉が数枚、紅に色づいて地面に落ちていることに気づく。
これから秋が深まるにつれ、もう一枚また一枚と葉が落ちていき、冬の訪れを教えてくれることだろう。

植物を飼うことは割に合わない趣味だと思っていた。
毎日水をやったところで彼とスキンシップをとって喜怒哀楽を共にできるわけでもない。しかし、こうして季節の移ろいを物も言わずに伝えてくれる様を見ると、自分がもののあはれを解する高貴な人間になったような気がしてくるので、捨てたものではないなと思ったりした。

仮に紅葉が、このように日々を経る毎に深まっていくものではなくて、一晩で成り代わってしまうものだったらどうだろう。
前日には青々と茂っていた葉が全て、一瞬肌寒さを覚えた晩の翌日には全てその色を失っているのだ。これでは風情もへったくれもない。

この点において、コンビニのおでんは最悪である。日中はまだ半袖に日除け帽を被って暑さを耐え忍んでいる時分から、レジ横の広大なスペースを利用して多種多様なおでんを一斉に売り出してしまう。

このコンビニのおでんに紅葉のような風情を与える方法はこうだ。
まず、10月の1週目にはタネもつゆも入っていない空のおでん鍋を用意する。そそのかされておでんを買おうとした客に店員は申し訳なさそうに会釈する。
2週目は、並々とつゆだけを入れる。出汁の香りに引き寄せられた客は再び首を傾げながら店を出ていくことになる。
3週目になって初めて、こんにゃくかはんぺんかのタネを申し訳程度に入れる。大根や玉子はまだ早い。客はまたしても裏切られることになるだけれど、この頃にはもうすでに、次週にかけて賑わってくるであろうおでん鍋を想像して夜も眠れないようになってしまっている。

このように、徐々に彩りを増していくおでん鍋を眺めながら冬の訪れを感じていく。
これが、コンビニおでんに求められる”風情”ではないだろうか。

9月30日(木)

15時間労働を終えて深夜一時前に帰宅。

今日は昼休みの時間を使って、翌日にタバコが値上がりしてしまうため、いつも吸っているゴロワーズを新栄のタバコ屋まで出向いてカートンで買おうと思っていたものの、そんな時間があるわけもなくビルのコンビニで買ったピースライトで1日をやり過ごす。

帰宅した時間は遅いが、出先でもないのに晩飯をファミリーマートや吉野家で済ませる気にはならず、気力を振り絞り翌日分も合わせて2食分の塩鮭を焼き、野菜炒めを作っていざ食べようとしたところ、野菜に紛れ込んでいたのであろう5cm程度の◯◯が姿を現したので、涙を流しながら全てゴミ箱に投げ捨ててソファーに寝転がんだところ、片付けも翌日の弁当の用意もしないまま朝を迎えてしまった。

こうして僕は、神の不在を確信するに至ったのである。

10月1日(金)

年に一度の健康診断の日。
毎年会社近くの健診センターで流れ作業で行われるこのイベントを僕が楽しみにしていたのは、検査の合間を縫って待合室の雑誌を眺めることができるからだ。

そこには東京や大阪(決して名古屋ではない)の大味な月間グルメ雑誌が何冊もおいてあって、死ぬまでに一度も行くことのないだろう行きたいとも思わない料亭の料理やその値段、佇まい、自称グルメ評論家のありがたいレビューを見聞して楽しむことができる。

これが面白いのは、普段触れることのない情報を得られるからであろう。
最初の1、2年は健診でiPhoneを携帯できず、仕方なしに興味もない雑誌を眺めていたのだが、それはいつしかそこでしか味わえない一つの楽しみになっていった。

ところが、今年は感染症対策のために雑誌が一冊残らず撤去されてしまったいた。

唯一の楽しみを奪われた僕は、クラシック音楽が流れる蛍光灯の白々しい光に満ちた、四方を真っ白な壁が覆う待合室の、規則正しく並べられたオレンジの椅子に検査服を着てただぼんやりと座り続けることになったのだが、段々と『時計仕掛けのオレンジ』のアレックスになったように気持ちになってきてウキウキしてきたので、くだらない雑誌がなくて良かったなと感じるようになってしまった。

僕の前世は高杉晋作なのかもしれない。

10月2日(土)

休日だが、忘れ物を取りに職場へ向かう。

すぐに帰ろうと考えていたのだけれど、物音ひとつしない白昼のオフィスに一人でいると、真夜中の学校に忍び込んだ時の高揚感が蘇ってきて、「何か悪いことをしなければならない」、という義務感が持ち上がってきた。

誰かの椅子を入れ替えたり、コップを隠したり、スリッパを全て逆向きにしたりと色々考えてみたのだけれど、職場となると悪戯と嫌がらせ、嫌がらせと犯罪の境界線が非常に曖昧になっていることに気がつき、結局実行には移さなかった。

かといって何もしないのも癪なので、iPhoneでリーガルリリーの『リッケンバッカー』を大音量で流しながら一人職場で踊ってみた。楽しくともなんともなかった。自分は一体何をしているのだろうかと、悲しくさえなった。

汚れちまったのは世界か、自分の方か、どちらなのだろうか。

10月3日(日)

Mが、「コメダのクリームソーダを食べたい」というので、禁煙法が施行されて初めてコメダ珈琲へ行く。

軽い緑色のメロンソーダの上にソフトクリームが乗った見慣れた長靴が運ばれてきたのだが、なんだか様子がおかしい。
僕の知っている長靴より、明らかにそのサイズが小さいのだ。

考えられる説が3つある。

1.本当に小さくなった
コメダ珈琲の創業者、加藤太郎氏はインタビューで、「お値打ち感を出すためにたっぷり出します。原価が上がっても量を減らすなんて考えられない」という旨の発言をしている。
名古屋を代表する企業の創業者が、大切な理念を曲げて顧客を裏切ったとは考え難いため、これは真実ではなさそうだ。

2.僕の心が小さくなった
僕が初めてコメダのクリームソーダを見たのは小学生の頃だ。見るもの全てが物珍しい時分に出会った長靴のクリームソーダは、僕に大きな心象を残した。そのため、思い出の記憶が時間とともに改ざんされて美化されていくように、元来小さなサイズであったクリームソーダもまた、実態よりもはるか大きなものとして記憶されていたのではないか。
これは1.と比較すると、説得力があるように思える。

3.秘密結社の仕業
この世界は秘密結社によって支配されている。現代のアメリカが悪魔を崇拝する一部のエリート小児性愛者たちによって操られ、政治エリートたちによる全人類管理プロジェクトの一環として感染症が全世界に広められたように、コメダ珈琲にシェアを奪われた喫茶店オーナーたちによる秘密結社がコメダの中枢部を乗っ取り、コメダを凋落させ純喫茶の覇権を取り戻すためにクリームソーダのサイズを小さく見せかける仕組みを作

10月4日(月)

持病で通院し、「症状がひどくなってきた部分と、治ってきた部分があるので、それぞれの薬の量を調整してほしい」と医者に伝えて薬局へ行ったところ、前回と全く同じ量の薬が出てきた。
薬剤師の方も「お変わりないようで…」というので、僕も「おかげさまで…」と会釈して薬を受け取る。

コミュニケーションは難しい。


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