見出し画像

『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』を読みながら暮らす

静岡に越してきて、一年と三か月が過ぎた。SNSでゆるくつながっている人たちはいても、ともに時間を過ごすような人間関係はここではできていない。できない理由を探すのはどんなときでも簡単で、たとえば仕事をしていない(いちおう契約はしているものの開店休業中である)からだとか、子がいない(いたら多分地域になじむんじゃない?知らないけど)からだとか、社宅ではない(実際社宅って最悪でしょ)からだとか、地域のNPOだったり趣味の集まりに入っていないからだとか、そもそもすべて感染症流行のせいで機会を逸しているままなんだとか。

ときどきは人と喋りたい。今朝は30分ほど、Twitterのスペースで数人のかたとお喋りをした。そうすると泳ぎだす感覚がわいてきた。

用事をしつつ、野菜を買いに行く。いつもの無人販売のところにはおばあさん二人がいらっしゃって、三百円を空き缶に投入してから、彼女たちにあいさつをした。というのも、今読んでいる『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』のなかにハッとする記述があったのだ。
ある集落で、夫を失い、ひとりになった女性がいた。彼女をどう支えたらいいかと周りのひとは気にかけていた。
「どう声をかけたらいいかわからなかったというのです」
ある時から女性は自分から声をかけはじめた。そうすると声が返ってきた。
”女性は今、あいさつ程度、立ち話程度の人間関係の中で生活している。”

先日、ベビーカーとともに電車内に乗ってきた人を見て、降りるときに手伝おうか迷ったまま、声をかけられずに見送ったことがあった。タイミングがあえば荷物を持ったりすることも体験としてはあるんだけど、じつはどう声を掛けていいのかいまだにわからない。ベビーカーとともに生活したことがないから、声をかけて怖がられないか、電車の乗り降りという数秒間にわたしの声掛けがかえって邪魔になるんじゃないかとか、ネガティブな推測ばかりしてしまう。

そんなとき、あの本のくだりを読んで、ゆるい気持ちで声をかければいいやん、と心が緩んだのだ。断られたり、さいあく怖がられても、わたしは怖いことをする人間じゃないんだし、必要な人がうけとってくれたらそれでいいんだろうな、と。

というわけで、野菜を買ったあとにおばあさんたちと会話を交わした。
「ピーマンが硬かったよ」とおっしゃる。
「豚肉と煮るのよ、わたし」とおっしゃる。
「わたしも、ジャコとお醤油で煮るのが好きです」と言ったら「若いひともジャコって言うのね」と返されたので「若くないんですよ」と答えてしまった。
これは失敗。だっておばあさんたちより確実に若いんだからね。

いらんことも言ったけれど、ゆるく暮らしていこう。
ついでにお花も買った。

いただいたサポートで栄養分を摂ります!