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共生するための日本語

ひさびさの日本語学習動画撮影の日。
今日は、前回作っていた台本を手直しして、『Lucy美術館に行く』っていう動画を3本撮った。

日本語養成科時代の恩師、現役日本語教師の3名のチームに入れてもらったのが9月。
わたしが日本語教師としてクラスを教えていたのは、もう30年以上前、だから、もはや素人でしかない。
それでも最近の仕事で、海外からの技術研修生とカタコトの日本語で話す機会があると、できるだけわかりやすく話そうという感覚は蘇ってきた。
カタコトでもちゃんとわかりあえる。
正確に話せないから理解できない、してもらえないなんてことはあってはいけないと思う。

わたしたちが今制作している動画は、文法ありきの他の日本語学習用動画と違うかもしれない。
JohnやLucyは、自分たちの知っている日本語でコミュニケーションを試みる。間違った日本語であったとしても、とりあえず、わたしたちは何とか理解しようと試みる。そのうえで、「それは、こういうことだね?」とか「こういうんだよ。」と付け加える感じ。
実は、最初の何本かの動画には、Johnの間違いに「何言ってるの、違うでしょ。」と厳しく訂正してる自分がいた。あとからそれを見て「わからないなりに一生懸命話してるのに、何であんなにキツい言い方したのだろう?」と落ち込んだのだ。
そんなとき、ちょうど仲間の1人から、「間違いを指摘する‼️ではなく、なるほど、そう言っても伝わるね❣️でも、にほかならこういう時は、こう言うよ💕という雰囲気が大事だ」という声もあり。
それから、動画制作の意図がハッキリ見えてきたのだ。

日本人は人の語学力にいちいちウルサイ。なぜ?
日本人芸能人の英語力を評価したり、逆に外国籍の芸能人の日本語にケチをつけたり。
それって何の意味もないと思う。
英語話すのがネイティヴだけじゃないように、日本語話すのは日本人だけじゃないんだよ。
コンビニの外国人店員の日本語にイライラするな!
間違った日本語で話しかけられても、気分害するな!
日本語をがんばって使っているノンジャパニーズのこと、理解しようという気持ちが大事なのさ。
そうやって、この日本の国でも様々な国の人々と共生していきましょ。




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