八月十五日@大阪

今日は朝から近くの老人施設に住む認知症のおばあちゃんを迎えに行ってお墓参り。お母さんが一時間以上に電話して用意しておいてねと言ったが、実際に部屋に行くとまだ服を着替えただけであった。おばあちゃんはもう五分以上記憶が持たないのである。

昔『博士の愛した数式』という小説があって一大ブームになった気がするが(小説好きでない私も読んだ)、そこで主人公が確か認知症になるがメモを頼りに予定をこなすシーンがあった気がした(気がしただけで全く内容は覚えていない)。

ボケているのに、メモに書かれていることを(疑問を持たずに)実行できるんだなぁと思ったが、この主人公のように、実際おばあちゃんの部屋に貼られたありとあらゆるメモの意味をおばあちゃんは理解しているのかどうか知らない。物の場所だったり、注意事項だったりだが、それを読んで何か行動しているようには見えない。

基本的には食堂で食事が出るからそれを食べているのだが、喉が乾いたりお腹が空いた時のために、食料を冷蔵庫に入れているが、それを発見できずにお母さんに連絡してきたりする。食料を発見できるようにメモ書きは部屋中に貼ってあるけど、もちろんそれを見ているはずもない(私からすると逆になんで目に入らないものかとも思うほどなのだが)。

おばあちゃんがボケ始めたのは三年前ぐらいのことだが、もともと天然ボケの入った人だったので、みんな気づくのが遅くなってしまった。おじいちゃんが亡くなる前に入院して、家に一人になってから多分始まっていたのだが、みんなおじいちゃんに夢中で、まさかおばあちゃんがボケていっていることなど考えてもおらず、そのまま日常一人で生活させてしまった。

二人で住むより一人で生活する方がボケる確率が上がるそうだが、やっぱり二人でいると良い意味で適度にストレスがあるし、計画・実行など重要な認知機能を使う機会が増えるのだろう。なのでもちろん一人で生きていても社会的コミュニティにちゃんと属していれば問題ない気もする。しかしやはり一緒に生活するというのは、また一段と密な関係性だ。

そんなことを考えながら、ボケたおばあちゃんを連れてお墓参りをし、お昼ご飯にはホテルの中華料理を食べに行った。台風のせいで人気のない道路をみては、「今日は人が少ないね」と何度も呟き、三人の子供を連れている親御さんをみては「三人の子育てはすごい」と何度も感銘を受けていた。五分前のことを覚えていないおばあちゃんにとってはこの世界はどう見えるのだろうか。

おばあちゃんを送り届け、午後は台風でどこも閉まる中唯一開いている地元のイオンの中にあるスタバに行く。全く進捗はないが、ぐちゃぐちゃになった頭の中が少しずつ落ち着いてきて、少しずつ頭をブダペストのモードに変えていく。ゆっくりとゆっくりと。

夜は幼い頃から通い続けている焼き鳥屋さんに行く。今年で四十周年だそうだ。変わらない場所を守るってすごいなぁ。