手をつなぐ

「寄付」の意義とは? 個のゆるやかな社会参画のかたち


「寄付」という体験がどのような意味を持つか。

READYFORという、クラウドファンディングサービスを提供している会社に移籍したこともあり、最近、この問いについて、よく考えを巡らせる。

なかなか難しいテーマで、時間をかけて考えるべきだと思っているが、まだ途上にある今の私の考えを書いてみようと思う。

ひとりの人が抱ける「想い」には限界がある

いきなり自社サービスの話で恐縮だが、「Readyfor」は、「誰もがやりたいことを実現できる世の中を作る」というビジョンの下で運営されているクラウドファンディングサービスだ。サイトには「やりたいこと」=「プロジェクトにかける想い」が多数掲載されている。

歴史上の謎を解明したい、平和のための活動をしたい、お店を開きたい、イベントを開催したい、動物を救いたい……。
実行者たちが実現したい「想い」のバリエーションも豊富だ。
https://readyfor.jp/

掲載されているプロジェクトの中には、同じ想いだ(けど、自分自身は実践には移せていない)と感じるものもあるだろうし、逆に、自分自身が抱いていない問題意識に基づくプロジェクトだと感じるものもあるだろう。

それも当然で、私たちに与えられた時間は有限なので、本腰を入れて実践に移せる「想い」(やりたいこと、問題意識・課題感)には限りがある。
また、そもそも、生まれ育った環境や出会った人、これまでの経験も異なるので、それぞれの「想い」も異なる。

ある人が抱く「想い」が限られていることは自然なことだし、おのおのが異なる課題感を持つことによって、世の中に必要な課題解決をみんなで分担しているとも言えるかもしれない。

寄付・支援というゆるやかな社会参画

たとえば、ある社会課題の解決に取り組むプロジェクトがあったとして、そのプロジェクトに寄付・支援だけを行うことは、実際にプロジェクトを実行することと比べれば、課題解決との関係では限定的・間接的な関与と言えるだろう。寄付・支援した金額が小口であればなおさらだ。

しかし、ゼロとイチでは大違いで、寄付・支援を行ったり、プロジェクトを実行した人から報告を受けたりすることを通じて、その課題の解決に少しでも寄与できたと思えるかもしれない。

私自身、実際に被災地に行ってボランティア活動をしたことはないが、「Readyfor」の緊急災害支援プログラムに支援をしたことで、被災地の状況や支援した団体の被災地での取組みを知ることができた。
多少なりとも被災地の役に立てたならよかったと感じたし、支援をしなければ知ることができなかった情報を得ることもできた。

ちょっと大げさかもしれないが、ある人が一生のうちに時間や労力をかけて真剣に取り組むことができる「想い」が限られているからこそ、寄付・支援というゆるやかな関与によって、その人の人生の幅が少し広がるのではないか。そんなことを思う。

社会課題を解決する主体は「官」から「民」へ

今後、少子高齢化の影響などで日本国の財政はより厳しくなるだろう。
そうなれば、「官」から投下される社会課題解決のための資本も縮減せざるを得ず、「民」が取り組まない限り社会課題が解決されないという事態もいっそう現実化するだろう。

社会課題の解決のために私たちの自発的な取組みが必須となれば、私たちの意識・価値観も変化していくだろう。
「民」の社会参画が加速することで、やや逆説的だが、「社会にとってよいことをすることが自身の生をより充実させる」という考え方がもっと一般的になるのではないか。

そうなれば、「社会にとってよいこと」へのゆるやかな関与としての寄付・支援の持つ意義は、より大きなものとなるように思う。

「よいことをすると気持ちがよいから、応援したくなるプロジェクトに支援することも気持ちがいい」というだけでもよいように思うが、寄付・支援には、それだけにとどまらない意義があるように思う。

「寄付」という体験のもつ意義についてはさまざまなご意見があると思うので、もしコメントなどあれば頂戴できますと幸いです。


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