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旅の記:2023年6月のツアー⑱大津事件跡碑(滋賀県大津市)

【旅の記:2023年6月のツアー⑱大津事件跡碑】

明治24年(1891年)5月11日、ここ大津にて日本を訪問していたロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ(後の皇帝ニコライ2世)が斬りつけられる事件が起きる。凶行に及んだのはなんと警備をしていた警察官・津田三蔵であった。理由は判然としないが、ロシアとの不平等条約が不満であったとか、日本人車夫をひざまずかせていたとか、西南戦争を生き延びた西郷隆盛がニコライと共に帰ってくるというデマを信じ、西南戦争で得た勲章をはく奪されることを恐れたとか、、ただ殺害の意図はなく「一太刀献上」しただけだけだと供述したという話もあるようです。また精神病の病歴があった。同行していたしていたギリシャ王国王子・ゲオルギオスや人力車の車夫が津田を取り押さえ、ニコライの怪我も致命傷には至らなかったが、当時世界でもトップクラスの軍事力を誇る大国の皇太子を負傷させたとして、天皇が汽車で京都までやってきて、ニコライを見舞った。また国民もロシアの報復を恐れて、学校は謹慎の意を表して休校となったり、神社・寺院・教会で皇太子平癒の祈祷が行われたりと「恐露病」といわれる混乱があった。

津田に対しロシア側、日本側両方に死刑を求める意見があったが、当時の司法省刑事局長であった河津祐之は外国の皇族に対する犯罪に特別に適用される法律はなく、民間人と扱いを同じにせざる得ないとして、無期懲役が妥当とし、大審院院長(現在の最高裁判所長)児島是兼も「法治国家として法は尊守されるべき」というたちばから無期懲役の判決を下した。このことはまだ曖昧だった三権分立の意識を高め、司法のあり方が議論されるようになり、また国際的にも日本の司法権は信頼を高めたという。
死刑にならなかったことに不満を持つものもいたが、結果的には賠償要求も武力報復も行われることはなく、ニコライもこの事件により特に日本を嫌悪することになった、ということはないそうですが、後に起こる日露戦争時の皇帝であり、日本人に対して差別的な発言があったという記録もあるそうで、まったく含むところがなかった、とは言い切れないかもしれませんね。。

津田を取り押さえた車夫の向畑治三郎と北賀市市太郎の二人はロシア軍艦に招かれ、あえて人力車夫の恰好で、大歓迎を受け、現在の価値にして1000万円前後とされる2500円の報奨金と1000円の終身年金が与えられ、さらに日本政府からも勲章と返金36円が与えられた。二人は英雄とされたが、向畑は素行がよろしくなく、勲章を没収され、ロシア戦争中には年金を日本政府に止められてしまった。婦女暴行事件を起こし逮捕、貧窮するものの昭和まで生きた。一方北賀市は堅実に田畑を購入して、議員にまでなるが、ロシア戦争中はロシアのスパイ扱いされたことから、家の表門に飾っていた勲章を取り外し、受理はされなかったが軍隊に志願した。北賀市の人生をもとに勝慎太郎主演の映画『鉄砲安の生涯』という映画も作られたそうです!
また畠山勇子という女性が、事件の影響を憂い、京都府庁前で自殺をはかり、病院に運ばれるも絶命した。その行動に「烈女勇子」とメディアが宣伝し、盛大な追悼式が行われる、という出来事もあった。

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