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旅の記:2023年9月のツアー③勝瑞城(見性寺)・勝瑞城館跡(徳島県藍住町)

【旅の記:2023年9月のツアー③勝瑞城(見性寺)・勝瑞城館跡】

見性寺は臨済宗妙心寺派の寺院で山号を竜音山とする三好氏の菩提寺です。かつてここには勝瑞城が築かれ、阿波国守護の細川家、戦国大名の三好家の本拠とされた。現在は当寺の南に隣接した場所に勝瑞城館跡があり、城は天正10年(1582年)長曾我部元親による侵攻を受けて(中富川の戦い)十河(三好)存保が急増した詰めの城であったというのが有力な説だそうです。
この一帯は室町時代に阿波守護職細川氏が守護所を置いた地で、阿波の政治・経済・文化の中心地として栄えた。
南朝:正平17年、北朝:貞治元年(1362年)に室町幕府第2代足利義詮の執事で、観応の擾乱でも足利尊氏方として活躍した細川清氏は、義詮により追放され四国に渡り、讃岐国白峰城に立てこもり反乱を起こす。これに対して清氏の従弟で阿波守護職の細川頼之が追討を命じられ、清氏方を討伐、平定した。頼之は阿波・讃岐を三分割して、自分は東讃岐、弟・頼有に西讃岐、詮春に阿波を与えた。南朝:正平18年、北朝:貞治2年(1363年)頼之は本拠地を勝瑞に移した。その後頼之は室町幕府3代将軍義満を補佐し三管領のひとりとして、幕府の実権を握った。寛正3年(1462年)に管領代となった5代当主・成之は、応仁の乱で兵を率いて上洛するなど、中央政府と積極的にかかわり、東山文化を代表する文化人でもあったため、京都から公家や文化人が来遊し、勝瑞城館周辺は文化都市として栄えたと言われる。
応仁の乱後も細川家の家督争いだけでなく、将軍家内での継承者争いが起こり、さらに細川家重臣の三好家が力をつけてきたことで混沌とした状態が続いた。とにかくこの時代は複雑怪奇で、みつどもえ、よつどもえの争いは、簡単には語り切れないのですが。。いずれにせよ享禄4年(1531年)に三好元長が細川家の争いに終止符を打ち、その息子である三好慶永が足利義輝を室町13代将軍に、細川氏綱を管領職に置いて中央政権を握った。
勝瑞城館では当主の細川持隆が小少将という美女におぼれ、防備を怠り酒池肉林の生活を続けていた。この時重臣として実権を握っていた三好長慶の弟・三好実休が謀反を起こし持隆を自害に追い込み勝瑞城館を奪取、持隆と小少将の子・真之を傀儡として実権を握った。その後小少将は実休の夫人になり「大形殿」と名を改めた。実休は永禄5年(1562年)に和泉国に出陣、戦死したため、その子・三好長治が家督を継いだ。
実休亡きあとも大形殿は家臣と通じるなど、やりたい放題だった。これに憤慨した家臣・篠原長房が諫めると反感を買い、攻め滅ぼされてしまった。忠臣で政務においても重きをなしていた長房を失った長治は日夜酒宴にふけり、信望は衰え、信長の登場で機内でも力を失っていたことから、重臣たちも離れて行った。天正4年(1576年)には細川真之が出奔、翌年には真之を奉じた小笠原成助の軍勢に攻められ勝瑞城館を追われ、長原の地で自害した。
この混乱を見逃さなかったのが長宗我部元親で、天正10年(1582年)に阿波へ侵攻、見性寺に城を築いて応戦するも中富川の戦いにて長治の弟・十河存保は讃岐国に敗走、城は廃城となった。
と、ざっと、かなりはしょっての歴史になりますが、勝瑞城が上記の時期に築城されたとすると、勝瑞城館とするのもおかしく、、情報も混乱しています。
応仁の乱の後の、修験道にはまって情勢を近づけず、養子を3人とって混乱を招いた細川政元、最初の天下人といわれる慶長を輩出した三好家もまた壮絶な歴史があります。歴史好きでも登場人物の多さと複雑な人間関係に圧倒されるのでした。。ちなみに朝倉義景が溺れて、お家滅亡の原因となったとされる女性も小少将でしたね!


まずは見性寺へ。宝治3年(1249年)岩倉にて創建され、永正年間(1504‐1521年)に現在の地に移った。
三好家の墓。左から三好家躍進のきっかけを作った之長、長慶の父で壮絶な最期を遂げた元長、義賢、長治。
勝瑞義家碑
土塁跡
勝瑞城館跡。居館跡や枯山水跡などが発掘された。かなり広い範囲に建物跡などがあるそうです。細川・三好家の繁栄がうかがえますね。







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