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旅の記:2023年7月のツアー⑥松代城(長野県長野市)

【旅の記:2023年7月のツアー⑥松代城】

松代城の前身は戦国時代、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が川中島で軍事衝突した際に、信玄の命を受け武田家足軽大将・山本勘助が築城した海津城です。対上杉勢の最前線として、また川中島四郡支配の拠点として重要な城で、城代には譜代家老の春日虎綱を置いた。
天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると、織田家家臣・森長可が入る。しかし同年6月に本能寺の変が起こり、長可は城を捨て美濃へ退却した。上杉景勝が信濃に進攻し、一時上杉氏の支配下に置かれたが、慶長3年(1598年)景勝が会津に転封、豊臣秀吉の直轄地となり、城主として田丸直昌が任じられた。直昌は関ケ原の戦いで西軍についたため、戦後、家は取り潰しになり、森長可の弟・忠政が13万7500石で入封、海津城を「待城」と改称した。この時忠政は天正壬午の乱で兄・長可を裏切った春日虎綱の次男・高坂昌元の一族を磔刑に処した。昌元は信長に降伏し長可に属したが、美濃から退却する際に一揆勢を率いてそれ阻止しようとしたという。
慶長8年(1603年)森忠政、美作一国(津山藩)に加増転封、松平忠輝が14万石で入り、忠輝が越後高田藩75万石に加増されると家老・花井吉成が城代となる。元和2年(1616年)忠輝改易、結城秀康の次男・松平忠昌が12万石で入封、「待城」から「松城」に改称する。元和5年(1619)忠昌、越後高田25万9000石に転封になり、酒井忠勝が10万石で入封。元和8年(1622年)忠勝、出羽国庄内13万8000石に転封。真田信之が13万石で入城、松代藩として幕末まで続くことになる。
明治5年(1872年)廃城となり、跡地は藩士たちに払い下げられたが、明治37年には真田幸正が買い戻し、明治6年に火事で御殿を焼失した本丸跡を遊園地として開放した。その後も噴水や番所を設置、二の丸にはプールやグランドが整備された。
昭和56年(1981年)に本丸を中心とした城址の一部と元治元年(1864年)に城外御殿として建てられた新御殿(真田低)が国の史跡に指定される。

平成16年(2004年)復元の太鼓門。堀、石垣、土塁なども同年に復元。
東不明門
本丸と太鼓門
本丸と見ずらいですが奥に北不明門
戌刻墨櫓台(天守台)。天守はかなり早く失われたそうで、本丸の四隅には二十櫓が上がっていたそうです。
かつての城の全容。現在は本丸周辺と新御殿を残す。太鼓門前橋・二の丸引橋が新設されていて令和6年3月に終了予定。石場門、二の丸堀、馬出しの復元計画があるそうです。




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