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旅の記:2023年7月のツアー⑲善慶寺・妙教寺<橋本佐内菩提寺>(福井県福井市)

【旅の記:2023年7月のツアー⑲善慶寺・妙教寺】

天保5年(1834年)福井藩の奥外科医の家の家に生まれた橋本佐内は嘉永2年(1849年)大阪に出て適塾にて緒方洪庵に師事した。一旦は父の病気のために帰藩し代診を務めるが、父亡きあと藩医となり江戸に遊学、蘭方医学を学んだ。この時、藤田東湖、西郷吉之助、梅田雲浜、横井小楠らと交流した。時勢を語らううちに、医学を離れることを望み、中根雪江らの尽力により御所院番となり、福井藩主松平春嶽の側近として登用された。
将軍継嗣問題では一橋慶喜を擁立する春嶽を助け、また幕政の改革を訴えた。英邁な将軍のもと、西洋の技術の導入や対外貿易の必要性を説き、地政学的にロシアとの同盟を提唱するなど、先進的な考え方の持ち主であった。
安政5年(1858年)井伊直弼が大老となり安政の大獄がはじまる。慶喜を推した春嶽は隠居謹慎となり、佐内もまた将軍継嗣問題に介入したとして幽閉され、安政6年伝馬町牢屋敷で斬首となる。取り調べの際に「私心ではなく、藩主の命であった」と話し、藩主をかばわなかったことが井伊の心象を悪くし、遠島が斬首になったとも言われる。死罪になるとは思っていなかった佐内は、死の間際まで泣きじゃくったと伝わる。
西郷隆盛、吉田松陰や幕臣川路聖謨などからも認められた人物であった佐内。きっと「こうしたい!」という大きな構想を持っていたのだろから、最後は本当に無念だったことでしょう。。
佐内亡き後の春嶽は、切れが悪くなった気がします。

佐内の遺骸は小塚原の回向院に埋葬されたが文久3年(1863年)に福井の橋本家菩提寺・善慶寺(日蓮宗)に改葬された。昭和20年(1945年)空襲により善慶寺は焼失、妙経寺と併合することとなった。善慶時は江戸時代以前は一乗谷にあったそうですが、朝倉氏滅亡後現在の地に移転したそうです。

善慶寺・妙経寺
本堂

隣接して佐内公園があります。昭和38年(1963年)に建てられたという銅像が建っていました。

最初の橋本佐内像は大正14年(1925年)に足羽公園に建てられ、台座正面の「橋本景岳先生像」の文字は元帥東郷平八郎が揮毫したそうですが、戦争中に銅の改修のために撤去されたそうです。公園内には佐内のお墓もあります。(写真忘れ)


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