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旅の記:2023年8月のツアー㉞羽黒神社(山形県米沢市)

【旅の記:2023年8月のツアー㉞羽黒神社】

福島から板谷峠を越えて米沢の入り口にある羽黒神社。創建は大同元年(806年)、出羽三山の羽黒山から羽黒神を分霊して勧請したのがはじまりとされ、当初は羽黒堂と呼ばれていた。
歴仁元年(1238年)に現在の地に遷座。元亀元年(1570年)に伊達と蘆名の戦いに巻き込まれ社殿を焼失し衰退したが、慶長3年(1598年)米沢城主となった直江兼続が社殿を再建した。
元文3年(1738年)火災により社殿を焼失、天明8年(1788年)に再建された。現在の社殿はその時のものだそうです。
明治時代に入り、神仏分離の影響で「羽黒大明神」から「大物忌神社」、そして昭和7年(1932年)に「羽黒神社」と改称した。

寛政8年(1796年)、上杉治憲(鷹山)が師である細井平洲を出迎えた地として知られています。

寛延4年(1751年)に日向高鍋藩主秋月種美の次男として生まれた治憲は母の実家である米沢藩の当主・重定の養嗣子となって、宝暦10年(1760年)桜田の米沢藩邸に移る。そこで儒学者・細井平洲を師とし、学問を学んだ。10代将軍家治の偏諱を受け治憲と改名し、明和4年(1767年)に家督を継いだ。

上杉家は会津120万石から米沢30万石へ減転封されたときに家臣団を召し放つことをしなかったために、人口に対する家臣の割合が高く人件費がかさむことで、深刻な財政難に陥った。さらに寛文4年(1664年)3代藩主・綱勝が嫡子も養子もなく急死してしまい、無嗣断絶の危機に立たされる。綱勝正室の父である保科正之が奔走し、綱勝の妹・富子と高家の吉良義央の子・綱憲(当時2歳)を末期養子にすることを認められて存続するが、15万石へと減封されてしまった。その後も名家の誇りを捨てきれない藩主の浪費や、病弱な藩主が続き代替わりが短い期間であったことで、藩政はおざなりになり、さらには宝暦3年(1753年)の寛永寺普請、宝暦5年(1755年)の洪水で、借財ばかりが膨らんだ。治憲の養父・重貞は藩領を返上することさえ、考えたという。
新藩主に就任した治憲は、専横のひどかった家臣を排し、財政に明るい人物を重用して、産業振興に重きを置いた明和・安永改革を実行した。また江戸での生活費を1500両から209両に減らし、奥女中も50人から9人に減らすなど倹約も行った。倹約のために、幕府へ運動費が足りなく、江戸城西の丸の普請を命じられ、多額の出費をしてしまったことも。。。それでも倹約に努め貯えを増やしたことで、天明の大飢饉でも他藩にくらべて犠牲者はかなりすくなかったそうです。(餓死者が一人も出なかった、というのは大げさという話です)
治憲は閉鎖されていた学問所を藩校・興譲館として再興し、子供頃の師・細井平洲を招いて、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。
明和8年(1771年)細井平洲は米沢藩在国を1か年とし下向、この時を合わせて三度米沢に来て講義を行った。
寛政8年(1780年)平洲69歳の時、三度目となった米沢下向で、治憲は羽黒神社まで師を出迎えて、普門院にて旅の疲れをねぎらったという。

隋神門
天明8年(1788年)再建の社殿。存在感あり!

治憲は引き続き改革を進め、反対派との確執も乗り越え、藩財政は改善、次々代の斉定の時代に借金を完済した。
天明5年(1785年)家督を前藩主・重定の実子(治憲が養子に入った後生まれた)治広に譲って隠居。享和2年(1802年)剃髪し、鷹山と号した。隠居後も改革を手伝ったが、文政5年(1822年)疲労と老衰のために睡眠中に死去。享年72。改革は直江兼続を見習うところが多かったそうです。

「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」










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