自己の振り返り



アメリカに来てという間に3週間が来そうなぐらい過ごしているわけですが、(体感はもっと過ごしてるんじゃね?と思ってる)そろそろオリエンテーションなどが始まるので、自分の振返りと最近の振り返りをしていこうかなと思います。まずは自己の振り返り。現地の振り返りは次の記事で・・・・。

①そもそも何者?


東京生まれ神奈川育ちで、アラフォーに近いアラサー?で独身。尊敬する人は、山本五十六、島田慎二Bリーグチェアマンです。趣味は少しだけですが
マジックができます。好きなことは、スポーツ観戦。
野球:横浜高校野球部の応援→友達と一緒に16年ぐらい?、横浜DeNAベイスターズで3年前から牧秀悟選手推し!その前は筒香嘉智選手、DianaはAyumiさん推し→いなくなってロス→Sarasaさんが気になるこの頃。バスケは横浜ビーコルセアーズで、河村勇輝選手ではなく、キング開選手推し!
大リーグはシアトルマリナーズが好きでカイルシーガー選手→今は無難にフリオロドリゲス選手。NBAはポートランドトレイルブレイザーズ!ブランドンロイとか同い年のデイミアンリラードが好きでしたが、移籍しそうなので次の推し探し・・・。
音楽を聴くのも好きで、サザン、ブルーハーツを中心にいろいろ聞いています。

小学校は地元の公立小学校で小4から受験勉強して、中高は私立の男子校に入学、中1の時からことあるごとに海外の生徒を自分の家に受け入れる経験をする。自分も高校の時に1年間アメリカ留学を経験した。、大学は私立の法学部。新卒で警備会社に入って、3年8か月警備員(機械警備)→本社でバックオフィスを3年11か月→そのあと新宿の支社でバックオフィスを3年7か月→今MBA留学。

小学校は受験勉強と、小5~6のクラスが印象に残ってる。受験勉強は六に復習をせずテストに挑んで悪い点を取っては隠し親に怒られてた。「やめさせるよ!」と言われたことは数知れず。小5~6のクラスは担任の先生がバスケと音楽(ブルーハーツとハイロウズ)の演奏を中心にやってて、国語とか社会とかをまともにやった覚えがないけど、そのおかげで、今でもバスケ観戦好きだったり、ブルーハーツが好きなんでしょう。

中高は人生で一番濃かった。今も付き合いがある人がいるし、活躍している人も多くいます。海外の生徒がよく来てたので中1から何を血迷ったか受け入れて英語が話せなかったり、中2の時は何とか話せたという達成感、中3の時は受け入れたときに盲腸で入院してメキシコ人に「Mocho!」って連発された。部活は中学はバスケ部(補欠だけど・・・)、高校はバレーを高2まで、そのあとは隣の家の方のクラブチームで活動させていただきました。
高1の8月からから高2の6月までは、学校の制度でアメリカの北西部にある州に留学してました。最初は本当になじめず、日本人の友達ができて、友達の家に入りびたる日々にホストが怒る、こちらも麻薬に近かったりなど身の危険を感じ、ホストチェンジ。ホストチェンジの後はアメリカの家族生活を楽しませてもらったし、部活もシーズンで陸上やったりなど楽しかった。今でもFaceBookで連絡をくれる人もいるので良い一年だったし、一方で不完全燃焼感があり、もう一回留学したくなる。今回の留学のきっかけですね。

大学は東京の山奥まで2時間かけて通ってた。とりあえず、国際交流サークルに入りその活動にどっぷりつかってたのと、あと塾講師のバイトを熱心にやってました。国際交流サークルではタイ人の受け入れ、韓国人の受け入れ、インドネシアに行く、あと大学の支部の代表やって、テレビ会議を海外とやったりとなかなかに活動していました。塾講師では、中学理科、高校理科、数ⅢC以外はほぼ教え、教え子が優秀なおかげで、いい中学や、いい大学に受かってくれて嬉しかったです。
 このころから、AKB系のヲタクとなり名古屋とか大阪とかに行くようになる。押しの遍歴は倉持明日香さん→柴田阿弥さん、このほかにも今DELLで有名な渋谷凪咲さんとかが推しでした。その後は新潟も加えて、29歳ぐらいまで毎回AKBのCDを30枚ぐらい、ほかのグループも買ってたり、ライブ行ったりとかなりお金を使ってました。

大学卒業後は某大手警備会社へ。決め手は海外に進出しており、セキュリティのみならず、様々な事業分野を取り扱っているから。あとは安全が社会のインフラであり、貢献性も高いと思ったからです。将来は海外で働けたらいいなとか、海外留学制度に合格してもう一度留学に行きたいなど、そんなことを描きながら入社しました。

 ただ、警備業なので、もちろん最初の配属は現場で、警備業を知る期間なんですよね・・・3年8か月は制服をきていました。こないだSNSのコメントでまだ警備やってるんだと思われてもいましたね笑
そして、本社のバックオフィス部門へ異動しやっと土日休みだ!と喜び、2年 半は契約書の審査、社内データの処理をやりながら、全国からの質問に答えたりしていました。最後7か月だけ、全国の管理指導みたいなことをやっている部署に配属され、全国の部長を相手にすることもあり、ヒイヒイ言いながら仕事をして、4年弱で卒業。
 その後は新宿ある支社にに異動し、管理グループというところで仕事をしていました。未払いの対応・請求書や警備のご通知書のペーパレス化促進がメインの仕事になりながら、ほかの人が回していない仕事をガンガンやってました。また、東京オリンピック2020には警備員として参加し、江の島と東京体育館の警備にあたりました。歴史に残る仕事にコロナ渦でもかかわれたのは色々思うところがありますね笑そうこうしているうちにもう12年目を迎えました。今じゃ新入社員の方が一回り下なんですね。気持ちだけは今も新入社員のつもりです笑

今年、クレアモント大学(Claremont Graduate University, MBAはDrucker School of Management)から合格をいただき、現在はカリフォルニア州クレアモントで、寮住まいをしています。

②留学が決まるまで

 ①で書いた通り、海外にとにかく行きたい!英語は多少話せるし、とにかく現場の警備業務は早く卒業して、スーツ着て海外を相手にすることが早くしたい!ということばかり考えていましたが、現実はそんなに甘くはなかった・・・・。入社1年目で社会人の現実を思い知らされました。1か月のインターン明けの初日に一人で行動したしょっぱなの対応でで非常ボタンが押されて現場に行ったら、「なんで警察なんか呼んでるんだ!誠意をもって謝罪しろ!」と言われ土下座させられたり、「警備員なんて何の権利もないんだからな!」と対処に行けば言われたり、ATMの復旧対応でお客さんに「早くしろよ!」と怒鳴られる・・・、何のためにこんな仕事をやってるんだろうと思ってました。追い打ちに先輩から「何かあったら土下座すればいいんだ」、「土下座がお前の切り札だ」と揶揄され、一時はメンタルを崩しました。今なら完全にパワハラですよね。その後、異動をして色々な方に良くしていただき、何とか警備員として3年8か月勤め上げました。

希望を書く自己申告で毎年海外希望を出すも、まあ通らず。海外留学制度は3年目から申し込めるのですが、毎年論文で不合格をいただいておりました。

 警備業務を3年8か月で卒業した後は、本社のバックオフィス部門へ異動しやっと土日休みだ!と喜んでいるのもつかの間、仕事が全くできず、ロースクール出身の先輩に指導を食らう毎日。全国にある支社からの問い合わせもこちらを馬鹿にした態度をとられて怒れば、逆に本社にクレームを食らう。そんな日々が続いていました。
1年後に、今でも尊敬する上司の方が「ピコちゃん(あだ名)、ミスは俺が全部フォローするから自信を持ってやりなよ」と言ってくれてその後は自信をもって仕事することができました。一方で、支社からの問い合わせは「長く働いているくせにこんなこともわからないのか」という態度で接していたからか、支社の人からすごく評判が悪かったです・・・汗 また、海外に行きたいという思いは依然としてあり、留学制度への申し込みをしては不合格を積みかさねていました。

だんだんやりがいがないし、もっといい仕事があるのではと?転職しようと某転職サイトを使ってみたりしましたが、「この仕事でこの年収はいいですよ」と言われ、このままあきらめようかなと思ったときに、妹からの紹介で、今の用語でいう社会人のリスキリングとして「リーダーシップの基礎を身に着ける」ことをコンセプトとしている教育機関に参加しましたここでの教育はスキルではなく、人間としての在り方の本学を学びました。ここでの経験がなければ留学はなかったし、趣味のマジックは書けなかったし、尊敬する島田慎二Bリーグチェアマンともお会いできませんでした(③にて後述)

その後は新宿にある支社にに異動し、先述したリスキリングの機関や人に恵まれ様々なチャンスをいただきました。営業部長がとても優しく営業の案件を任せていただき、売上貢献で3回表彰をいただきました。管理の指標においても、未払いのお客様の対応について1年で解消に成功しました。また、ペーパレス化の促進、その他外人の英語での警備機械の操作説明から、最終的には外国大使館との警備契約の交渉をしました。

また、東京オリンピック2020には警備員として参加し、江の島と東京体育館の警備にあたりました。この中でも、外人相手の対応をよくしており、とにかく外人の説得が大変でした。その中で運営委員会の方に頼りにしていただいたり、外人とも仲良くなったりと、とにかくいろいろありました。守秘義務上あんまり話せませんが・・・・。

東京オリンピックの年にももちろん海外留学制度に申し込み、また論文まではすいすい行ったのですが、「また論文で落ちるのか・・・」と思っていたら、10月ごろ「合格」の通知が来て焦る。いや何それ、今まで7年間落ちてたんだよ?ドッキリ?ぐらいの勢いです。11月には専務取締役、人事取締役、国際事業の役員と3対1で面談し、なんとか合格しました

2022年1月より予備校に通い、TOFELのスコアが上がらず悩んだり、GMAT何それおいしいの?状態で試験のスコアがまずいな、もう留学とか無理じゃねとか思いながら、何とか12月にUniversity of WashingtonのEMBA、2月に今いるクレアモントのDrucker School of Managementから合格をもらい、希望はUniversity of Washingtonだったのですが、人事取締役と面談するなどいろいろあってDruckerへ進学となりました。

③留学ができた要因

これに関しては②でも書いたのですが、リスキリングの教育機関に行ったのが一つのターニングポイントでした。転職もできない、海外にも行けない、このままで終わるのかなってずっと悩んでした。そんな時に妹が紹介してくれたのが「しがく」というリスキリングの教育機関です。学生から30代(最近は50ぐらいの人もいると聞いていますが・・・)の人が、「リーダーシップの基礎を身に着ける」という目標の下学んでしました。ここで教えていただいたのは当たり前のことに感謝すること、人とのかかわり方(スキルではない)でした。ここで学んでいるうちに、いつの間にかマジックやってたり、異業種の社会人の方とのかかわりが増えて色々な交流ができたり、そしてここの運営会社が、東京八王子ビートレインズのオーナーになったから、なんと自分が人生で尊敬する島田慎二チェアマンに会えた!しかもマジックをやって、島田さんのポッドキャストで紹介されるという、本当にラッキーだとしか言えない出来事がありました。

ここで学んだことは、普段の仕事にも生かせる内容で、お客様との折衝ごとにおいても相手の立場に立つ、相手にまず何ができるか考える、そして普段からのアピアランスに気を付けるなど、本当に基本かもしれませんが、実践してよかったことばかりです。会社の人たちには普段の態度から信じて盛らないかもしれませんが、本当です笑。新宿に異動してからの4年間で、②で書いたような成果が出て人事評価もよくなり、充実感がありました。

加えてここに通うことで考えたのは「自分がどのように会社に貢献するか」ということです今まで論文を書いてきて、この部分がすごくあいまいでした。会社の目標もよくわかってないし、会社が出してるロードマップの文字をなぞってるだけとフィードバックでいわれたこともあります。
改めて、海外進出を積極的に進めて売り上げを伸ばそうとする中で、どんな役割を果たすか?ここを考えていました。そのことを論文に書いたら、合格していたという感じです。④で詳しく書きますが、7回不合格を食らいながら、8度目で合格したということは本社の人事の方にも驚かれましたし、会う人にも話しているのですが、皆驚いています。るろうに剣心で「一片の澱みもなく己が道を貫く、簡単なようで難しいことよ」というセリフがあるんですが本当にそう思います。

④Why MBA?

もともとは高校の海外留学で遊んでばかりで、英語がしっかり身につかなかったなという後悔がありました。もう一度海外留学したい!とずっと思いながらも、大学では国際交流サークルとバイトばかりして終わり、社会人になって、海外で活躍できるようになりたいという目標を持って頑張ろうとしていましたが、今もこの言葉を思い出します。「君は何をもって国際事業に貢献するの?」、これは学生の時に、今の会社にOB訪問に行ったとき、国際事業部の人に言われた言葉なんですよね。確かに今の自分には何もない。法学部出身だけど、法律の知識は怪しいし、英語だって多少話せるぐらいでは?などと色々思うことがありました。
まず③でも書いたような会社に貢献することって何だろうと考えました。会社の売り上げに貢献するなら営業でもできるけど、営業ではなく、現地で法人を立ち上げて、その経営を現地に根付きながら、安定・発展させることをできる人材になって、この会社をリードしたい!、そのあとは日本から海外の法人を支援したい!その目標のためには経営のスキルが必須じゃないか?というのが大雑把すぎかもしれませんが、理由です。
次にMBAなら国内でも一橋・慶応・早稲田、企業ならグロービスなど自分でお金を払えば行けるじゃないかということもありますが、僕はとにかく「現地に根付くなら、現地の価値観を知ることが必要」、「海外のMBAであれば、多種多様なバックグラウンドの人が集まる」ということと、自分で学費を賄うだけのお金はないことから、社費の海外留学制度にずっと応募していました。ここに書いたことはあくまでも、大まかなことなので論文を見返すといろいろ書いてあったなと思います。

⑤今後の目標について

 社内の留学制度に受かる→海外の学校に合格する→海外の学校を卒業する→戻って会社で役割を果たす。
 僕はこんなステップの中にいるかと思います。まだ、本当に留学をしている段階で、何も成し遂げていないなってことを改めて感じています。この決断を正しくするのは今後の自分なんだということを、バスケットボールの渡邊雄太選手の言葉から教えていただきました。
 もちろん帰国後には会社に何年かいないといけないいう縛りがあります。多くの留学経験者はより良いフィールドを求めてやめてしまうなんてことも聞きますが、今のところはそれを考える前で、授業についていくこと、何か一つでも成果を残していくこと、現地の学生とコミュニケーションをとって楽しむことをまずできるようにしていきたいです。高校生の時はこんなことを考えていなかったなと改めて思います。目標は④に書いた通りなのですが、Drucker Schoolではマネジメントの教育に力を入れており、特に人を大切にするということを中心に据えていることから、僕自身もここで「会社人としての哲学」を確立したいと思っています。これは経営者としての在り方だったり、会社に属する者としての在り方の考えをこの2年で基盤を作りたいです。
難しいことだとは思いますが、こうして会社のお金で来れていることに感謝して日々過ごすこと、なぜなら、会社に過去・現在・そして未来にいらっしゃる方が、会社に貢献して得たお金で僕はここにいます。それに報いることを忘れず、日々精進していきます。

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