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スラーエルセの若者

人は、何かの影響を受けて生きている。

幼いころに憧れたヒーローやヒロインから始まって、大人になっても誰かの背中を追っている瞬間がある。
そんな光景を外から見ていると不思議と明るい気持ちになれるのは、なぜだろう。

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デンマーク東部に位置するスラーエルセ(Slagelse)は、首都・コペンハーゲンから列車で1時間ほどにある小さな街である。

日本からフランクフルトを経由し、コペンハーゲン・カストラップ国際空港(Copenhagen Airport, Kastrup)に降り立つ。
木材と大きな窓をふんだんに使った陽の当たる空港の通路を歩いていると、それだけで気分が明るくなった。

入国審査の列に並び、携帯電話の電源を入れると、ショートメッセージには取引先であるノア(Noah)からの通知が入っていた。

ノアは20代前半のスレンダーな若者で、デンマークでも大きな養殖場のヘッドオフィスで働く青年だ。
通知には、渋滞によってピックアップの時間が大幅に遅れると書かれていたが、僕は彼がおそらく寝坊をしたか、いつも仲の良い彼女と明け方まで遊んでいたのだろうと勝手な想像をし、画面を見て少し笑った。

到着日は彼が休日だったこともあり、わざわざ空港まで迎えに来てくれることを心苦しく思っていたので、空港からコペンハーゲン市内までは電車で向かうとノアに送信すると、わりとすぐにOkayと返事がきた。

とはいえ、僕はデンマークで列車に乗ったことがなかった。
正確に言えば過去に一度だけ、スラーエルセからコペンハーゲン市内まで乗ったことはあったが、そのときはノアが同行していたので、どうやって乗り込んだのかの手順を全く覚えていなかった。

空港を出ると、コペンハーゲン市内行きの列車はすぐに見つかり、チケットを買うのに少し手間取ったが、多くの旅行客に紛れて乗り込んだ。

コペンハーゲン駅に着き、ホテルを探す。
市内を歩いて驚いたのは、自転車の専用道路が確立されていることだ。
ある国は曜日によって市内を走行してよいルールがあったり、コペンハーゲンのようにクルマの代わりに自転車を促進する国があったりする。

どっちがいいのかなんてわからないけど、ベトナムのホーチミン市内を縦横無尽に走るバイクの群れも好きだったりするので、いろんなことが変化していく時代に生きていることが、少し嬉しいと思う。

翌朝、コペンハーゲン駅に向かうと、日本でも見るような色分けされた路線図があって、簡単にスラーエルセ行きが見つかった。

想像以上に静かで速い列車に1時間ほど乗ると、目的のスラーエルセ駅に到着した。

駅の小さなロータリーには、かなり使い古された”真っ黒”な赤いフィアット・ウーノで迎えに来たノアが、笑顔で出迎えてくれた。彼は会ってすぐに昨日のことを謝ってきたので問題無いと返事をすると、ついでにノアの働く社長にはこのことを黙っててくれと小さくウインクをし、お互いに笑った。

彼は生まれも育ちもスラーエルセで、街で一番大きな養殖場に勤務している。
ノアは養殖場までの道のりにある道路の凸凹を、まるで全て知っているかのように避けながら、軽快に運転をした。

養殖場に着くと、経営者のホルガー(Holger)が入口で立っていた。
ホルガーの背丈は普通だが、身体つきは熊の様にがっしりしていて、”海の男”というヤツを連想させる。

いきなりホルガーはノアに、昨日アツシの送迎をちゃんとしたのかと尋ねると、明らかに挙動不審な素振りで、小さくイエスと答えた。
事前に自ら打ち合わせたわりに演技が下手過ぎると思ったが、ホルガーは頷くと、顎でオフィスへ行こうとジェスチャーした。

ノアはオフィスに入るなり同僚のスタッフに呼ばれ、別の部屋へと行ってしまった。

ホルガーとは久しく会っていなかったので、お互いの近況と挨拶を済ませると、

「ノア、昨日空港に迎えに行ってないだろ?」

と言った。
ホルガーには全てを見透かされている様な気がして、僕は小さく首を縦に振ると、小さくため息をつき、デスクに置いてある大きなマグのコーヒーを飲んだ。
ホルガーには、彼の休日に迎えに来てもらう方が悪いのだと話すと、彼は「そういうことじゃない」と言ったが、それ以上その話題はしなかった。

ホルガーは、ノアがまだ子供のころから知っている親戚みたいな間柄で、会社の連中も、みんなノアのことをどこか自分の子供の様に扱っていた。
ノアはその中心でいつも笑っている印象で、実際にお調子者のノアは、会社の人気者でもあった。

その日から幾つかある仕事を始め、数日が経過した。
終日ホルガーと共に行動していると、彼の目配りに驚かされる。
工場の機械が故障したとき、その補修に工場やメーカーのエンジニアと一緒に立ち合い、細やかな指示を送る。
ある時は、乗っているボートのエンジン音がおかしいと言い出し、誰もその異常に気付いていなかったのだけど、調べてみたらやっぱりおかしくなる予兆があった。
どうやってわかったのかと訊くと、ホルガーは耳に手を当てるだけで、さっぱりわからなかった。

ある日の夜、ホルガーから食事に誘われ、2人で市内のレストランに行った。
こじんまりとした、シックで暗い照明のレストランだったが、次々に出てくる食事はとても美味しかった。
ただ、赤や白ワインを何本も開けては新しいグラスに注いでくれるので、いつの間にかテーブルはグラスまみれになり、僕は途中から何を飲んでいるのかもわからなくなっていた。

そういえばノアをここ数日見ていなかったのでホルガーに尋ねると、彼は今、西にある別の養殖場に行かせているとのことだった。
普段ホルガーは無口だが、その日はいつにもなく上機嫌で、かなり酔っていた。

「ノアに、いつかこの会社を継がせようと思ってるんだ」

そう言うと、僕は驚いてもう一度聞き返した。
ノアは確かに人気者だが、いつも彼に厳しく接しているホルガーを見ている限り、そんなことを思っているとは全く想像がつかなかったからだ。

「俺の若い頃に似てるんだよ」
ホルガーはそう呟き、少年の様に笑った。

帰国日の午後、ホルガーはノアに僕をコペンハーゲンの空港まで送るように言った。
オフィスのデスクにいたノアはすぐに立ち上がって上着を羽織り、準備をした。
オンボロのウーノはかなり怪しいエンジン音で始動し、壊れたトランクは開かないので後部座席にスーツケースを乗せると、ノアはツルツルのタイヤで高速道路をかっ飛ばした。

車中2人でくだらない話をしたあと、先日ホルガーが話したことをノアに告げると、彼はしばらく真横を向いたまま驚いた。

「いや、ちゃんと前を見ろ」

逆にびっくりした僕がノアに言うと、彼は思い出した様に前を向いて運転を続けた。

そこからは空港まで彼の質問攻めにあったが、僕はただ、あの夜ホルガーがそう言っていたと伝えろとだけ告げられていたので、それだけを説明した。
すると、彼は突然有り得ないくらいの雄叫びを上げ、運転をした。

ノアという若者は単純にも見えるが、彼は人の気持ちがわかる。

ノアは一番現場のワーカー達と接し、細かな問題でも何かあればすぐにヘッドオフィスへ伝達し、改善を促す。

ホルガーはそれを直接見ている訳では無いのに、おそらくあちこちからノアの話を聞いているのだろう。

あの夜、酔っ払ったホルガーが何を思って僕にそう言ったのかまでは聞かなかったが、同じ景色を感じ取った気がした。

お調子者のノアはいつか、憧れのホルガーになるのだろう。

Slagelse Station, 2007

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