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市場の親子


昔からどの街を訪ねてもそうなのだけど、土地勘をつけないまま過ごしていると目まいの様な違和感を覚える事があるので、できるだけ散歩をするのが好きだ。

ホーチミンとて同様、若い頃は街の事をあまりよく知らなかったので、暇さえあれば色んな場所をうろちょろした。

ホーチミン市内を散歩するなら朝方がオススメで、少し早起きして短い旅に出る。
朝飯はなるべく同じ場所で食べない事にしていたけど、以前はアイスコーヒーをブラックで出してくれる店が限られていたので、自ずとそこを中心に散策の範囲を拡げていった。

8時頃になると、それまで漂っていた風が急に面倒臭くなるのか、じわじわと淀みだす。
その頃を大体、散歩の終わりの合図にしていた。

当時、お気に入りの散歩コースの1つにベンタン市場があった。
ホーチミンに来れば、多くの旅行客も訪れる観光スポットだ。

早朝の市場の中は、雑多な商品がこれでもかというほど並んでいた。

買った途端に壊れそうな腕時計、どう使うのかわからない動物や仏様の木像、ずっと売れていなくて埃をかぶっているサングラスや、思わずその場の雰囲気で買ってしまい、観光客が羽田や成田に帰国すると、我に返ったようにソッと外す光景をよく見かけるノン(菅笠)、カラフルなサンダルにTシャツ、魚介の乾物に見た事もない調味料、市場には何でもあった。

韓国にも梨泰院市場(イテウォンシジャン)という時計や衣服やバッグを売る雑多な市場が20年前にはあったのだけど、それよりは規模もずっと小さい。現代の梨泰院は、当時と比較するとずっとオサレなファッション街になった。

ベンタン市場にある商品の多くは、もれなく僕にとっては要らないモノだらけで構成されていたのだけど、もしかしたらこの中にキラリと眠る宝物が見つかるかもしれない……と信じながら漫ろ歩くのが、とても楽しかった。

市場全体の面積でいえば土産物屋全般が幅を利かせてしまっているが、裏手に回ればちゃんと市場としての機能もある。

未だ観光客が来ない早朝には多くの魚や肉が並び、ホーチミンの人々が市場へ買い出しに来る。

ある日、いつもの様に特に何をするわけでもなく、蒸した場内をぐるぐる回っていると、市場の一番奥まった場所にある洋服屋に目がとまった。

他の店と売っているモノに大きな違いは無いのだけど、店の売り子が大体女性なのに対し、その店はおっさんと、5歳にもなっていないだろう小さな女の子が店番をしていた。

そこで、黒いポロシャツを5枚ほど買った。

おっさんは僕が最初買わないと踏んでいたのか、最初はやや”つっけんどん”な態度でいたのだが、買うとわかると急に満面の笑みになり、ベトナム語でありがとうと言った。

まことに商売っ気がない。

その頃、ベトナム滞在を重ねるうちに1つ便利な習慣を覚えた。
市場で売っているポロシャツは、安いもので1枚数百円だった。
作りはわりとしっかりとしていて、滞在中着ていて全く問題が無い。

そこで、ある時日本から持ち出す荷物を最小減に抑え、滞在日数分だけ市場で買ったシャツを着る様にすると、荷物が一気に軽くなった。
当時、月に一度は訪問をしていたので、市場に行く頻度もそれなりにあった。

ベンタン市場を歩いていると、無理矢理ウデを掴まれて自分の店に引き込もうとする店が多い中、件の店は全くやる気の無いおっさんと小さい女の子がただ座っているだけで、訪ねても一切話しかけてこない。
僕にとってそれがとても居心地がよく、買いたくなる動機があった。

周りの店は英語も日本語もそれなりに話せるのだけど、おっさんはベトナム語だけを話した。
とはいえ、毎回欲しい色を指さし、お金のやり取りをするだけなので、言語で困る事はあまり無かった。

毎月散歩コースは変われど、市場に向かう事がルーティンの様になってくると、徐々におっさんは僕の顔を覚えてくれるようになった。

いつ行ってもお店にはお客がいなくて、女の子は大人しく座って絵を描いていた。

市場はわりと世界の流行に敏感で、流行りのイラストやデザインが流行すると、市場の洋服などもそれに合わせて目まぐるしく変わる。
それを見ているだけでも楽しかったのだけど、おっさんの店だけはいつも同じ物を売っていたので、何となくお客が来ない理由はわかった。

おっさんは、訪ねる度に何も言わず奥の倉庫に走り、黒のポロシャツを5枚用意してくれた。

僕だってたまには他の色やデザインを見たいし、色々と想うことはあるのだけれと、いつも満面の笑みで5枚用意してくれるおっさんの不器用さが、ちょっとだけ好きになっていた。

それに、流行りのデザインがぐるぐるする人気店は、いつも値段が違った。
こないだは300円と言っていたのに次に訪ねると600円になっていたり、酷い時は2000円くらいまで値段が上がっていたのだけど、おっさんの店は最初に訪れた時からずっと同じ値段だった。

そもそも僕は値引き交渉というのがとてもニガテ(下手)で、そんな交渉をイチイチする必要が無いというだけでも大きかった。

ふと、おっさんの隣にいる大人しい女の子の描く絵が、いつも同じ絵である事に気づいた。
短くなったクレヨンで書かれた絵は決まって花と人が描いてあり、女性らしい人が描かれていた。

僕はしゃがみ込み、彼女に何を書いているのか英語で指をさして訊くと、『マー』と言って、おかっぱ頭の女の子は、大きな瞳でニコリとした。

”マー=母親”という事は理解したのだけど、それ以上細かい事を訊くのはとても神経のいる話だと思ったので、質問を躊躇った。
初めて訪れた時から、この店にいるのはおっさんと女の子だけなので、僕は一度も母親を見た事が無かった。

ちょっと間を置いてから、もしかすると共働きという事もあるだろうと思い、おっさんに身振り手振りでその事を尋ねると、彼女の母親は今病院にいるという事がわかった。
おそらく、病気かなにかで入院をしているのだろう。

それ以上の事は尋ねなかった。

ある乾季の月。
うだるような暑さの中、僕はいつもの散歩コースであるベンタン市場へ向かった。

活気に溢れた食材市場に相変わらず人気の洋服屋は目まぐるしく商品が変わり、観光客を相手に大声で商売をしていた。

最初は迷路のように感じた場内も、もう迷わずに通り抜けられた。

店に行くと、おっさんと女の子はいなくなっていた。

僕はびっくりして、おっさんの代わりに座っている女性に2人の事を尋ねた瞬間、その女性があの女の子にそっくりな事に気づいた。

彼女は何の質問をしているのかと、少しだけ怪訝な顔をしていた。

僕はなんでもないとジェスチャーし、彼女から黒い5枚のポロシャツを買った。

おっさんが言っていた値段よりちょっと高かったけど、それで良いと思った。

今日も、暑くて長いホーチミンの1日が始まる。

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