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【日記】スマホを持たずに出かけた土曜日

 高校一年生になったタイミングで、両親から買ってもらったスマートフォン。僕らの一個上の先輩たちはみんなガラケーだったけれど、僕らの世代は(ほとんど)みんなスマホだった。こんな言葉は世の中にはないかも知れないけれど、僕らがまさに「スマホネイティブ第一世代」と言っていいだろう。

 スマホを持って以降、ズボンの右ポケットがその定位置になった。(左ポケットは鍵類と財布)この定位置は約10年来変わっていないので、そこに重みがないと違和感がある。出かけるときはもちろん、家にいる時も基本は手元にあるし、トイレに入ってもSNSを見てしまうし、寝る時も枕元に置いてアラームをかけておく。まさに四六時中、年中無休で一緒だ。この10年でスマホは色々と進化を遂げて、僕が一日何歩歩いたか?階段を何段登ったか?どんな割合でアプリを使っていたか?睡眠効率は良かったか?どこで写真を撮ったか?全て、(ほぼ)勝手に記録されていく。

 便利なことも沢山ある。でも、僕より僕のことを知っているようで、少し気味が悪い。(RADWIMPSの曲にこんな歌詞があったような) これでは、スマホを使って自分を管理しているようで、スマホに自分を管理されているのではないかと思えてくる。

 一回スマホから離れてみよう。そう思ったのはtwitterの(スマホネイティブは同時にtwitterネイティブでもあるので、この呼び方しかできない)あるツイートを見たことがきっかけ。人類は意識しないとスマホから離れられなくなっている。土曜日にどこかへ出かけて、ゆっくり読書でもしようかと思った。ここに書くのはその日に起きたことと考えたことの記録である。それでは、はじまりはじまり。

↓件のツイート


2024.04.13.(土)

 朝10:00、溜まっていた洗濯物を干し終えて、いい気分で自転車にまたがる。財布とカメラと文庫本を2冊、お気に入りのカバンに入れて、のんびり20分ほどペダルを漕いで、大きな橋を越えて隣町までやってきた。道中、以前から格好良いなと目をつけていたガソリンスタンドの写真を撮った。田圃の真ん中に流れる用水路を辿ってベストスポットを探す。日は出ていなかったものの、ものすごく蒸し暑くて、Tシャツの上に羽織っていたシャツを脱いで鞄にしまう。

頑張っていいアングルを探したけれど、結局道路から見た方がカッコよかった

 一度行ったことのある手巻き寿司屋さんでブランチ。店員さんが言っていることを完璧に聞き取れたし、完璧に受け答えできた。さらに気分が良くなる。でも店内で流れるニュースは相変わらず聴き取れない。文庫本を開こうと思う間も感じず平らげた。美味しかった。店内には僕しかいなかった。みんなお持ち帰りしてるみたいだ。

めちゃくちゃ寒そうに見えるけれど、26℃くらい。半袖半ズボンの人しか見かけない

 行きつけのコーヒーショップに向かう。初めて行ったときに店員さんが結構話してくれて、割と仲良くなった。僕の勤める会社のことも知っていて、すごいね!日本からそのために来たのね!とひとしきり盛り上がったのだ。加えて声がとても可愛いし聞き取りやすい。

 「元気してた?」「地震怖かったね」などとやりとりしながら、アイスコーヒーとおやつ系の中で一番安かった金柑のパウンドケーキを頼む。席について本を読みながら待っていると、すぐに持ってきてくれた。相変わらず美味しいコーヒーだ。選んだ本は『最後の親鸞』(吉本隆明)、最近ずっと中国語の本ばかり読んでいて少し疲れたので、ご褒美にと今日は一日、日本語の本を読むことにした。この本は先輩におすすめしてもらった本で、一年前くらいからずっと気になっていたし、この前日本から遊びに来てくれた友達(こちらも先輩)に頼んで買ってきてもらった本。周りに恵まれている。

偶然の出来事と、意志によって選択できた出来事とは、いずれも大したものではない。なぜならば、偶発した出来事とは、客観的なものから押しつけられた恣意の別名にすぎないし、意志して選択した出来事は、主観的なものによって押しつけた恣意の別名にすぎないからだ。真に弁証法的な〈契機〉は、このいずれからもやってくるはずはなく、ただそうするよりほかすべがなかったという〈不可避〉的なものからしかやってこない。

p.35(太線引用者)

 契機は不可避的なものからしかやってこない、か。うーん、面白い。「絶対他力」という概念をどうにか理解しようと読み進める。予想していた通りかなり難解なこともあり、何度か読む手を止めてスマホを開こうかと頭によぎったけれど、見ようがないので諦めてすぐ本に戻れた。
 そのほかにも、これはどういう意味だろう?とか、あの人は今何しているだろう?とか、誰かから連絡が来てるかもしれないな、みたいな思いが、読書をしている頭を掠めていく。でもそれらはすぐにいなくなっていった。帰ってから見れば良いじゃないの、と自分の中のお姉さんに言われる。その通りだ。なんか、瞑想中の感覚に近いかもしれない。やってくる誘惑から目を背け、離れていくこと。そしてまた「元々やっていたこと(ここでは呼吸でなく読書)」に集中すること。

 コーヒーショップはかなり混み合ってきて、店員さんが忙しそうでお喋りする隙はなさそう。隣に座るカップルが急に接吻しだしたり、4人で来ていた女の子たちが自撮りに夢中になっていたり、幼い女の子がお母さんの後を追いかけてコケてしまったり、そういう些細なことが、ヘッドホンをつけていないことで、より聴覚と視界に入ってくる。音楽やポッドキャストを聴くことって、「今ここ」から少し離れることなのかもしれない。

 60ページほど読み進めたところで、席を立った。親鸞の思想が難解なことと、席を開けようという理由が半々。隣にある古本屋に向かう。同じ建物内にあるので、移動するだけだけど。いろいろと物色していると、何故か歴史コーナーの棚に俵万智の文字を見る。カバーのないハード本は、薄緑色をしていて、タイトルは『よつ葉のエッセイ』。現代短歌の良さがあまり分からない自分にとって、エッセイはハードルが低くてありがたい。開いてみて一文読んでみると、「ゆで卵の硬さ」についての文章を見つける。絶対他力からゆで卵へ。700年前の仏教思想から、30年前の家庭内の趣味嗜好へ。あまりに読みやすすぎる。吉本隆明に箱詰めされそうになっていた脳味噌をマッサージしてくれる感覚。僕は出会うべくしてこの本に出会ったんだと、購入を即決した。180元(850円くらい)した。台湾古本屋あるあるだけど、日本語の本は少し割り高なのだ。

 俵万智ってまだ生きてるのかな?とか、サラダ記念日ってどんな短歌だったっけ?とか、今までどれほどの数の本を出版してきたんだろうか?とぐるぐる考えたけれど、調べる術がないのでひとまず諦めた。本を読む場所を探すべくまた自転車を漕ぐ。

 普段Googleマップで自分の位置を確認しながら移動するけれど、今日はそんなこともできないので、記憶と勘と経験を頼りに喫茶店を探す。この街には思った以上に喫茶店がない。ドリンク屋さんやチェーンのコーヒー店はあるのだけれど、わざわざ隣町まで来て入る意味もないかな〜と思いしつこく探す。そのおかげか、今まで入ったことのない小さな小道とか、隠れた小さな水路を見つけて、テンションが上がる。街を無目的に散策することも、しばらくできていなかったかもしれない。

ものと屋根がはみ出した生活用道路
動画を見ながらチルってる服屋のおばさま
裸で働くおじさん

 途中で見つけた豆花屋さんで冷たい豆花を食べながら俵万智を読む。とても読みやすい。短歌ってこんなに身近なことで良いのかと、なんか自分でも作ってみたくなってきた。カバンから小さなノートブックと普段スケッチに使っているペンを取り出して、いくつか書いてみる。(これもスマホがあったとしたら、スマホ内のメモ帳を使っていただろう。)

 31字の制約と、七五調のリズムが面白く、その型に乗せるだけで途端に良いものに思えてくるから不思議だ。これは確かに楽しい。目の前を走っていくバイクが、昼食を食べに出かけるカップルが、建物に張り付く室外機が、全部短歌のモチーフに見えてくる。大袈裟に言ってみれば、まさに世界が瞬いて見える。紙とペンさえあればいつでもできて、誰でも考えられる、こんな楽しい趣味があったとは。

手で考えた短歌たち

 豆花屋さんにあまりにも他の客が来ないので気まずくなって、また移動を開始した。少し空が暗くなってきた頃に(スマホがないと時間さえも分からない)、やっとこさ一件のカフェを見つけた。喫茶店ではないけれど、まあ妥協点だろう。移動中も、頭は短歌のことでいっぱいで、立ち止まってはノートにメモして、うんうんこれは良いとほくそ笑む。なんと短歌を読むことさえも知らなかった男が、俵万智に出会って3時間もしないうちに、歌人の気持ちがわかったような気さえしてきたのだから可笑しい。

 抹茶ラテを頼んで、さっそく俵万智の続きを開く。10ページくらい読んでは、ノートに戻ってツラツラと。その手が止まったら、また俵万智に戻る。なんて楽しい時間だろうか。抹茶ラテと本の色が似ていることに気づいて、抹茶の短歌までつくってしまい、気づけば20首近くできていた。これではあまりにも「あてられ」すぎている。

俵万智(180元)と抹茶ラテ(150元)

 半分くらい読み進めたところで、外を覗くと雨が降りそうに見えた。雨具の用意はないので、早めに(これも何時だったのか分からない)帰ることにした。朝干した洗濯物のことも心配である。帰り道は大変だった。道を間違えてしまって、かなり回り道を強いられた。道に迷うということも、思えば随分とやっていなかった。

 家に戻ったら、すぐにスマホを開いてしまった。LINE、Gmail、instagram、twitterを確認するも、あったのは家族ラインでの姉から母に向けてのメッセージと、2件の迷惑メールだけだった。やっぱり、頻繁に確認する必要なんて、つゆとない。

 カップ麺を啜りながら、ネットの友達におすすめしてもらった中国の作曲家のアンビエントミュージックを聴きながら、俵万智に戻ってたら、20時ごろには読み切ってしまった。ネットを手に入れるとすぐにマルチタスクになってしまう。でもこの本に限っては、何かを目的としない、すごく良い読書体験だった。

 シャワーを浴びた後はゆっくりウイスキーを飲みながら、眠くなるまで動画を見ていた。忙しい毎日の中でこういう一日を取れること、それが人生を楽しむコツかもしれない、そんな大袈裟なことまで考えた。

振り返り

 「スマホを持たずに家を出る」という実験をして分かったこと。

・時間がわからなくなる
・道がわからなくなる
・天気予報を確認できなくなる
・調べものができなくなる
・帰ってきた後にネットを使う時間が、普段に比べて少し増える

・短歌が20首くらいできあがる
・本を普段よりたくさん読める
・周りの環境に意識が向くようになる
・偶然の出会いが増える=目的を果たすまでの時間が少し遅くなる
・心配事が減る

 結果としては、すごく有意義な一日だったと思う。箇条書き前半の、不便なことシリーズを楽しめる性格ならば、後半には良いことしかない。見なくて良いじゃなくて、見ることができない、という環境を作り出すことって、とても大事だ。これが親鸞のいう〈不可避〉ということなのか?と、馬鹿な締めくくりをして、この日記を終わりにします。これからは、2週に一回、いや月に一回くらいでも、こういう時間を作ろうと思う。

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