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舒明天皇陵


古墳には色々と種類があります。

前方後円墳、前方後方墳、方墳、円墳、上円下方墳、八角墳、竪穴式、横穴式、群集墳……

形での分類も色々とできるのですが、被葬者が天皇や皇后、その他、皇室に連なる方のお墓は陵墓と呼ばれます。
分類というか、宮内庁が管轄して扱いが変わる感じです。

○○陵とか○○山陵、○○御陵というのは天皇や皇后のお墓です。

で、僕はそういった古墳も大好きです。
前方後円墳には前方後円墳の、群集墳には群集墳の、そして天皇陵には天皇陵の良さがあるわけです。

で、舒明天皇陵です。

舒明天皇陵、古墳ネームは段ノ塚だんのづか古墳です。

所在地は桜井市忍坂。外鎌山とかまやまの丘陵の先端部に作られた古墳です。

国道166号から集落を抜けて外鎌山とかまやまへと向かいます。
車一台分の幅しかない民家の間の道を上がるのですがそれほどは上りません。徒歩でも国道からなら5分か10分ほど歩けば着きます。
また舒明天皇陵には駐車場もあります。

長い階段を上がるのはしんどいですが、神聖な感じがして天皇陵の階段はけっこう好きです。


この遠い位置からもう立ち入らせない感じも、古墳巡りを始めた頃は不満でしたが、今は雰囲気あっていいなーって思います。

そもそも中に入ったところで、ただ木が繁るばかりの山ですし。

天皇陵のご参拝の作法が分からないので、神社と同じように二礼二柏手一礼をしています。

積み石が見えます。

実はここは日本で最初の八角墳なのだそうです。
八角墳は皇族だけが造れる様式です。


そんな神聖かつ高貴な古墳ですが、洗濯物干しスペースとしても活用されていました(物干し竿が立てられているだけで、この日は洗濯物は干されてなかったですが)。

天気の良い日はよく乾きそうです。

解説書きのサインがありました。

以下文字起こしです。

舒明天皇は、忍阪ゆかりの押坂彦人大兄皇子の息子で、初めて遣唐使を派遣し、また我が国初の国家寺院である百済大寺を建てた天皇として知られています。皇后は、斉明天皇で、二人の間には、後の天智天皇、天武天皇、孝徳天皇妃となった間人皇女がおられ、飛鳥時代は正に舒明ファミリーが皇統の主流にのぼりつめた時代といえるでしょう。

段ノ塚古墳は、古墳時代終末期の7世紀中頃に造られ、現在「舒明天皇押坂陵」として、宮内庁で管理されています。母親の田村皇女(糠手姫皇女)との合葬墓とされ、 日本書紀には舒明天皇は舒明 13年 (641)に崩御、 2年後に押坂内陵に改葬され、 田村皇女については、天智3年(664) に亡くなられた事が、記されています。 ただ田村皇女墓の所在については日本書紀に記載が無く、 平安時代に作られた 「延喜式」 にその所在が舒明天皇陵内とされている事から、舒明天皇と合葬されている可能性が高いとされています。 その事実を裏付けるように、江戸末期の文久年間(1861~1864) に墳丘の南面が崩壊し石室が露出した際、 村人たちが密かに内部を窺ったところ、2基の石棺がみられ、手前の石棺は縦に、 奥の石棺は横に置かれていたという話が伝わっており、 研究者の間でも被葬者は、舒明天皇と、母親の田村皇女の可能性が高いと考えられています。

この古墳の最大の特徴は、なんといっても我が国で初めて造られた八角墳であることです。それは八角形をした天皇の玉座 「高御座」 にも流れをみることができます。 諸説があり確定はできませんが、 万葉集巻 1-3間人連老 (はしひとのむらじおゆ)の歌に舒明天皇を讃えた歌が詠まれています。
「八隅知之 我が大君の朝には取り撫でたまひ・・・」とあり、 我が大君にかかる 「やすみ じし」から、八角形は「国土の隅々迄おさめる」 事の思想の表れであり、 それはまさに 八角墳の出現時期と重なる事から、国家統一的な形にしたのではという学説に興味をそそられます。


解説文さんも興味をそそられるようですので、僕も興味をそそられます。
個人的には天武天皇・持統天皇が興味をそそられるのですが、そのパパである舒明天皇の時代にも興味をそそられます。


鏡王女墓

舒明天皇陵の解説サインのすぐ近くだったかな、鏡王女かがみのおおきみ万葉歌碑の解説もありました。

鏡王女って、ファンタジックな響きですよね。
いや、ファンタジックっていうよりも鏡王女ミラークイーンですから、クイーンの曲か吉良 吉影のスタンドでしょうか。


ともあれ、文字起こし

舒明天皇陵 (段の塚古墳) 前の、細い道の横を静かに流れるせせらぎの傍に、万葉学者、犬養孝揮毫の鏡王女の歌碑があります。 作者の鏡王女は、はじめ中大兄皇子 (後の天智天皇) に愛され、その後、 藤原鎌足の正室になったといわれています。 この歌は中大兄皇子が鏡王女に贈った恋の歌に対して詠んだものです。

●中大兄皇子 「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」
(貴女の家をずっと見ていたいものだ。 大和の、あの大島の嶺に家でもあったら 見れるのになぁ・・・) これに対し

●鏡王女 「秋山の樹の下隠り逝く水のわれこそ益さめ 御思よりは」
(私は貴方が思ってくださる思いよりも、木の下を潜り流れる水のように、あなたより ずっと深く思ってますよ)

犬養孝さんはこの歌に鏡王女の性格がよく出ているといわれています。 派手に愛情表現するのではなく、深く胸の内に思い込んで、内に秘めた愛情を吐露していく、そう 言う女性かと……

万葉歌碑は数多くありますが、これほど風土にぴったりくる歌碑も少ないと言われている一基です。わずか31文字の中に内に秘めた女心を見事に詠い上げています。 この歌碑のあたりから視界が一気にひろがり、遠くに鏡王女墓を望めます。 まさにここは 「万葉の世界」の入り口で空気感まで違うように感じます。


そのミラークイーンのお墓は、もう少しだけ山に入っていったところにあります。

道の脇にはちょろちょろと綺麗な水が流れています。そこに蟹を見つけたので激写。


舒明天皇陵を過ぎて五分も行かないうちに、牧歌的といいましょうか、のどかといいましょうか、出来すぎなぐらい綺麗な山間の風景がありました。

ここにミラークイーンのお墓があります。


道の脇に解説サインが倒れていました。
自然災害か何かで支柱が折れていたものを、誰かが脇にどかせたのでしょう。

一応、文字起こしを


鏡王女押坂墓

押坂街道・キーワード

巫女

鏡女王は近江国野洲郡鏡里の豪族・鏡王のむすめと言いその妹が額田王と考えられています。
二人は近江の水の女、高級巫女として天皇家に仕えたと考えられていますが、万葉歌人として著名で、鏡女王は藤原鎌足の正妻としても知られています。

川端康成や井上靖も訪れ、
このあたりのたたずまいを楽しんでおられました。

大和の古道紀行 

一般社団法人 桜井市観光協会



きちんと立っている解説サインもありました。
こちらの方が情報量が多いです。

以下、文字起こし


鏡女王かがみのおおきみ

平安時代に出来た 「延喜諸陵式」によると 『鏡女王 押坂墓』 と記載され大和国城上 郡押坂陵域内東南にあるとなっていますが、いまひとつ押坂陵 (舒明天皇陵) との関係が不明であり、調査も行われていないので、 築造年代を特定する材料はありません。 しかし、この場所は忍坂山 (外鎌山) の南斜面の小さな支尾根の突端に作られており風水思想に基づいた終末期古墳の特徴をそなえています。また、この地は古くから王権とのつながりが深く鏡王女 ( “鏡女王”とも記す) の墓があってもなんら違和感のないところです。

鏡王女は、近江国野洲郡鏡里の豪族 鏡王の娘で、万葉歌人として有名な額田王の姉に あたるとされ、二人とも天智天皇に召されていましたが、 鏡王女は、後に藤原鎌足の正室となられました。 奈良興福寺の起源となる山階寺(やましなじ)は、藤原鎌足が病気のとき、 鏡王女によって建立されたと伝えられています。 また鏡王女の記録が少ない中で、 「日本書紀」によれば、天武12年 (683) 7月4日、天武天皇は鏡王女の宮へ行き、 見舞ったが、彼女はその翌日に亡くなったと記されています。

墓は、かつて幹を高く伸ばした松の木が十数本植わっていて、 写真家 入江泰吉氏もこの風景を 「写真集・やまと余情」 などに残されています。 今は、杉と檜の木立の中に八重桜が春の日を浴びて鏡王女に相応しい上品な雰囲気をかもしだしています。

尚、ここは宮内庁の管理でなく地元の忍阪区の老人会が、 下草刈りのなどの奉仕を行い、 年に一度、 談山神社の神職により祭祀が執りおこなわれています。


陵墓りょうぼという言葉のうち、天皇や皇后のお墓をみささぎ、それ以外の皇族のお墓はそのまま墓というそうです。

ですのでミラークイーンのお墓は鏡王女墓なんですね。


地元の方の管理ということですが、とても綺麗にされています。

御陵ではありませんが、やはりおごそかさがあるように感じます。


……まあ実はこの時、蝿にたかられて追い払うのに必死だったのですが。


蝿と戦いつつもぐるっとまわって墳丘も確認。

まあ普通に山ですね。


大伴皇女墓

ろくに調べもしないで行ったので、たまたま少し向こうにもう一つの解説サインが見えたので、近くに大伴皇女おおとものひめみこのお墓もあることに気付きました。

古墳の目印としても解説サインの存在はありがたいです。
これがなければ、ここで引き返してしまうところでした。


以下、文字起こし

大伴皇女は日本書紀によると、 欽明天皇と堅塩媛きたしひめ (蘇我稲目の娘)の間に生まれた 13人の子供の内の一人で、 古事記では大伴王と記されています。 兄弟には推古天皇や用明天皇 (聖徳太子の父)らがいます。 従って大伴皇女は聖徳太子の叔母さんという事になります。

平安時代に書かれた延喜式に押坂内墓とされ現在、 宮内庁で管理されています。 未調査の為、その実態はわかりませんが明治12年(1879年)の山陵絵図では横 穴式石室と思われる埋葬施設が描かれています。立地から見れば 「三方山囲み」の南面する地形に造られており、 終末期古墳の可能性があると考えられています。 尚、奈良県遺跡地図 (奈良県教育委員会)では15A-77の名称で円墳とされています。

万葉学者の犬養孝さんは、この地に立って著書 「萬葉とともに」 で 「やや高みのところに欽明天皇の皇女、 大伴皇女の墓がある。 ここから南を振り返れば、 中央すぐ下にこんもりとした鏡王女墓をおいて、 遠く左手に音羽山のおおきな山塊を、 右手には多武峰の山容をのぞみ、こんにちの大和では珍しく、ただ一軒の家もなしに、 晩秋もみじの頃など、 四周は黄に褐色して紅に染められて、 満山寂として声なしといっ てよい、静寂の山ぶところとなるのである。 将来はわからないにしても、せめてこの山ぶところの静けさだけでも、この国の未来にかけてこのまま残っていってほしいものである。そこには千三百年の声々が、 心と言葉の美しさに昇華してまざまざと生きづ いているのだから」と絶賛されています。 その景観は今も変わることなく村人たちの手 によって大切に守られています。


大伴皇女墓は、この先約120m上にあります。


というわけで、さらに120メートル進みました。

こんな感じの山道を進みます。

大伴皇女墓が見えてきました。
宮内庁管轄だからか、ミラークイーンのお墓よりも立派です。

正直なところ、大伴皇女さんのことはほとんど知らなかったのですが、こうして参るととてもありがたい気持ちになります。

おごそかです。

寄りで。

ここも普通に道があって墳丘の後ろに回り込むことができます。

墳丘です。

まあ墳丘というより、ここも普通に山なのですが。

宮内庁管轄の古墳だと思えば、こんな間近で見られるのは嬉しい気がします。


神籠石とか

来る時に発見していたのですが、舒明天皇陵から国道に降りるまでの間に神籠石じんごいし(ちご石)という史跡にも寄りました。


以下、文字起こし

明治43年(1910) の古書に忍坂村の中央に 「楯の奥」 (現・タツノ奥)という ところあり、その北の矢垣内 (現・屋垣内) に 『神籠石』という大きな建石があると記されています。 また昔から「血ご石」 と呼ばれ、 石を割ると血が出ると言われてき ました。 つまり、「チゴイシ」は「神籠石」だったのです。 ジンゴイシを繰り返し言えば…………「チゴイシ」になったのでしょうか。

火の見櫓と半鐘は、 昭和35年(1960) 頃、 忍坂坐生根神社境内より、ここに 移設されたものですが、 まだ櫓(やぐら) が置かれて無い頃、 忍阪の若者たちは素手で正面からこの巨石に登り、一畳敷きの上で大の字になれば一人前の証とされていま した。 登りはよいが降りるにはかなりの勇気がいったようです。

神籠石は一般的には「こうごいし」と呼ばれ山中に列石や土塁、 石塁で囲いを作っ た遺跡のことです。 この巨石についての由来は明らかではありませんが、忍阪では、 神武天皇がこの地にいた八十建 (ヤソタケル)を討つとき、この石に匿れ、石垣をめぐらし楯としたという伝聞があり、 現在の字名 「タツノ奥」 (タチノ奥) の由来は楯とし た巨石のある奥のほうという意味合いもあるようです。 また一説には、この巨石は近く にある舒明天皇陵 (段ノ塚古墳) の兆域 (延喜式によると東西 9 町、南北6町)の 基準となる施設との考えもあり興味がひかれます。 規模は高さ約 2.5m、 幅約 1.5m、 厚さ約1mで若干の表面加工が見てとれます。

一体、だれが、どんな目的で建てたのか? 謎の大石です。 皆さんもいろいろ想像して みては如何でしょうか?


青空の下、櫓と半鐘が映えます。


ふと思ったのですが、石というのは割れたら二度と元には戻りません。
そしてこの強度でこのサイズのものは古代においては人間の手で作り出すことはできません。
従って、大石、巨石はものすごく貴重な物だったのではないでしょうか。

それと、グーグルマップにて、神祠とだけ書かれた謎のお社を見つけていたので、そこにも寄りました。

謎のお社。

道の脇にありました。
小さいです。

謎のお社

小さいお社ですが千木もあって雰囲気があります。


という感じで藤原宮跡〜舒明天皇陵 編は終了です。


と思っていたら帰りに寄ったローソンの裏に古墳を見つけてしまいました。

ローソン裏の古墳


その名も稲荷山古墳(豊慶大神)です。


場所は箸墓古墳からも近い、奈良県桜井市芝。


ローソンの駐車場からこんもりとした小山の上に鳥居が見えたので、行ってみました。

豊慶大神は稲荷社のようです。

狛狐がお出迎え。

未調査の古墳のようですが、築造は三世紀代の可能性もあるようです。さすがは奈良。

というわけで今度こそ完。
最近でも他にもいくつか古墳に行ってるのでまた写真あげさせていただきます。








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