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親戚紹介⑦母方の叔父B

それでは今回は、母方の会社を継がなかった方の叔父の話をしていこうと思う。

私は、この叔父に自分の人生を重ね合わせていたような所があった。

なぜなら、生涯独身で、叔父自身が話していた事なのだが、25歳の時にうつ病になったと語っていたからだ。その事を母に話すと、まさか〇〇ちゃんがうつ病だなんて!と笑い飛ばすのだった。そんな母が私には奇異に見えて仕方がなかった。

幼少期の頃、母とともに祖父母の家へ帰ると、この叔父もお正月にはお年玉をくれた。中身は千円とかだった気がする。仕事は、祖父母の手伝いもしてきたし、ある時は、家の近くのジュースの自動販売機の管理の仕事もしていたと聞いた事があるが、詳しくは知らない。だが、実家で祖父の闘犬で飼われていた獰猛な土佐犬の扱いは手馴れていたのを覚えている。私の家族が飼っていた犬が子供を産んで、祖父母宅に1匹連れて行った時のこと、庭の木に繋がれていた土佐犬がその小さな仔犬にじゃれつこうとしていたようなのだが、当時の私には、食べようとしているか、襲おうとしているように見えて仕方しまって、怖くなった私は大声で助けを求めた所まで、叔父がやってきて、土佐犬の首輪を掴むと土佐犬はすぐに大人しくなったのだった。

子供の頃の私たちには、よく話しかけてくれていた。悪い人ではなかったはずだ。タバコをよく吸い、ヘビースモーカーのようでもあった。だが、この叔父は何故か結婚するという事もなかった。私と同じような似ていると感じていた。私が子供の頃のある日、「ズッコンバッコン体操」というのを叔父が作り出したようで、両手を前に突き出し、腰を前後に振るという動きをみんなに見せて、笑われていた。幼い私たちも、面白がっていたのだが、成長期に入り、それが交尾の時の動きだと知ると何とも変な気持ちになるのだった。

またこの叔父以外の母を含めた4人が結婚してしまった後、私は叔父宛に年賀状を書いて、今年は〇〇叔父さんにもお嫁さんが来ますようになどと書いて送った事があり、後から本人に聞いたのは、結婚はちょっとな…と言っていて、どうして、何かあるのかな?と少し心配になったのを覚えている。

結局、この叔父は、他の4人の兄妹が家を出ても実家にいるのだった。そして、祖父が他界し、祖母と2人暮らしになっても、ずっと祖母と暮らしていたようだった。祖母も現在は他界しているが、まだ存命だった頃、母も食品を持って行ったり、ねこの世話などを手伝いに頻繁に行っていたようで、母が最寄り駅に着いて電話をかけると叔父が車で迎えにきてくれるということであった。

祖母もただひとりの息子を頼りにしていたようで、私が小学校の時以来、再び祖父母宅に遊びに行ったのは、本当にここ2~3年の話である。私が本当に久々に顔を出して名乗ると祖母はお茶を出してくれたが、私の事が分からなくなっていた。祖母は立ち上がって叔父の名前を呼ぶと、やってきたのは20年以上会っていなかったのだが、髭を伸びて白髪になった年老いた叔父の姿だった。私が名乗ると思い出してくれ、一瞬驚いたようであったがすぐに打ち解け、私がまだ小さかった時によく遊んだ事や、祖父が亡くなった時のことなどを話してくれ、祖父のお墓にお線香をと勧めてきてくれたのだった。その時の祖母は既に90歳を超えており、叔父も70歳近くにはなっていたと思う。

その後も母は実家に足繁く通っていたようだが、その中で叔父は私の事を話してくれたそうで、〇〇もたくましくなったなどと言っていたようだ。その翌年、祖母が他界し、叔父はひとりになってしまった。ひとりになってしまった叔父は、不安症状が強く現れ、夜になると救急車を呼んでしまうなどといった事を度々繰り返してしまい、入院する事になった。その病院は精神科の病院だったのか、普通の総合病院だったのかは分からない。祖母が他界した後も母は、叔父の元へ度々通ったようだ。だがしばらくして、叔父は肺がんで亡くなってしまったのだった。母は私に、病院のベッド上で酸素マスクをつけている叔父の写真を見せてくれた。叔父が亡くなった時の連絡は夜中にあったようで、近くに住んでいる会社の跡継ぎを任された叔父が連絡してきたと聞いている。

葬儀は身内だけで行われ母や私の従兄弟にあたる人も参列したそうだ。私は葬儀に立ち会う事はできなかったのだが、叔父の訃報を聞いて、とてもショックを受けてしまった。うつ病をかかえ、恋人もできないでいた叔父の人生に自分を重ね合わせていた所があったので、その時の衝撃は計り知れなかった。私はしばらく仕事を休む事になった。祖父母宅には、私が小さい頃から、何故かハエがたくさん飛びまわっていて、各部屋にハエたたきなどがあった。私が、都内の自宅で、休んでいると開いていた窓から、大きなハエが1匹入ってきて、私の頭の周りでせわしなく、羽音を立てるのだった。私はその時間は結構長く感じていた。ずいぶんと時間が経って、ハエは出ていったのだが、この時のハエは叔父だったのだと、私は信じている。私は、この時のショックで、何度も食べ物を戻してしまうのだった。

そして、しばらくして母から香典を持たせるので行ってくるようにと使いに出された。誰もいなくなった祖父母宅は、ひっそり。しんと静まりかえっていて、仏壇のある部屋に祭壇が築かれていて、祖母の60代くらいの時の写真と、叔父の若い頃の学生服を着ている写真が並べて立てかけてあるのだった。私は、座って手を合わせると、心の中で深く挨拶したのだった。

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