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富士へ⑦山の宗教

歴史や文化に無知な私は、「富士山は有名な観光地」くらいに思っていたのだが、当然のことながら、調べてみると富士山は古来から「聖なる山」「霊山」「修行の場所」であった。

人穴洞窟周辺は、江戸時代に興隆した宗教「富士講」の開祖・角行という行者が修行していたところだ。その角行の系譜の六世にあたる食行身禄は、富士山で断食死(入定)している。

富士講の流れをくむ現在の扶桑教や実行教なども、角行を開祖としている。ただし角行自身は教団などとは関係がなく、一人の行者だった。

人穴洞窟で修行した角行には、有名な逸話がある。

当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く。そして、この穴で4寸5分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年(1560年)「角行」という行名を与えられる。

Wikipedia/強調は引用者

角行は「4寸5分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践」したといわれていて、この奇妙でアクロバティックな修行が、「角行」という名の由来だとされている。4寸5分角というのは14センチ角で、その角材の上に人が爪立ちして一千日間いるのはどう考えても不可能だ。この逸話を普通に聞けば、「半ば仙人のような人物のあり得ない伝説、ファンタジーにすぎない」と思うだろう。

「角行尊師之御像」
人穴洞窟で、角材の上に立つ角行の姿

しかし、実際に瞑想修行をしたことがある私はこれを読んでこう思った。

「角行という修行者は、人穴洞窟で三年間のリトリート修行をしてサマディに入っていたんだな」

サマディ(三昧)とは瞑想の究極状態である。そのとき呼吸は止まり、意識は肉体から離れ、いわゆる死の状態を経験している。サマディを目指した私の極厳修行の記録を読めば、なぜ「角行は人穴洞窟でサマディの修行をしていた」と思うのかがわかるはずだ。

三日、四日と単調な修行を続けていると、七日目に入る頃には、私の身体は一本の上昇する太い気の柱のようなものに包まれて、強い力で全身が固定されるようになった。

「オウムとクンダリニー」038. スワミになる

【20日目】身体の前面に強烈なエネルギーの柱が立ち上がる。あまりに強いエネルギーで身体を曲げることもできない。

「オウムとクンダリニー」049. 光への没入

横になって眠ることなく、断食をしながら瞑想してサマディ(三昧)に入る修行をしていると、やがて強い気が上昇して身体を包むようになり、気の柱が立っているような状態になる。そんな修行を経験していれば「気の柱が立つ」という表現を実感できるだろうが、普通の人がこの話を伝え聞いても意味が分からず、「気の柱」を「木の柱」と勘違いして「角材の上に立つ」と伝えてしまったのではないだろうか。

そして、角行は「修験道」の行者であった。

少し長くなるが、日本独自の山の宗教である「修験道」とはなにか『修験道入門』(五來重著)から引用するので読んでみてほしい。これを読むと山の宗教世界はアニメーション『もののけ姫』の世界に近いのかな・・・などと思えてくる。

日本は国土の八割が山であるという国柄なので、世界に稀な山岳宗教がおこった。これは陰陽道や仏教と結合して修験道という特殊な仏教をつくりあげたが、これが日本人のあらゆる宗教の原点をなし、すべての庶民信仰を包含し、しかも多くの庶民文化をつくりあげたことは、あまり知られていない。
山は常に異次元の世界であり、他界である。そこには神々の世界や、妖怪の世界や、死者の世界があると信じられた時代がながかった。日本人は平野を生産と生活の場とし、山を宗教の場として来た。山で獣を狩し、木を伐り、金を掘るものがあれば、その山人は平地人以上の霊力をもつとかんがえられた。したがって宗教上の奇蹟や託宣をおこなうものは山から出てくると信じられたし、やがて平地人も霊力をもとめて山に入り、宗教生活をおこなうようになる。この霊力は修行のしるし(験)としてあらわれるものだから、験力げんりきとよばれ、験力を得る修行が修験道である。

人間の平地の現実生活は日進月歩の進歩をする。それは人間の物質と肉体のよろこびを増進するためである。その意味で現代の文明は平地文明であり、都市文明であるといえよう。山を崩して平地にまでして物質と肉体のよろこびを追求する反自然の文明である。これに対して山の生活は原始のままにとどまろうとする反文明の生活であって、物質と肉体のよろこびを捨てて精神のよろこびに生きようとする。<中略>
したがって山岳宗教は苦行の宗教であった。そして生命軽視の宗教であった。現代の常識ではかんがえられぬ野生宗教で、文明謳歌の文化人からは、野蛮、迷信、無智、粗野、不潔、反動、などの、あらゆる罵声をあびせてしかるべき宗教である。しかし、それらは同時にわれわれの祖先、それも三、四代前までの先祖が大切にもちつたえた生活であり、そこから生まれた宗教にほかならぬものである。

五來重『修験道入門』序章「野生の宗教」より

苦行をすることと、修行の進度を験力(超能力)ではかるというのは、オウム真理教の修行と似ている。修験道や富士講とオウム真理教に直接のつながりはないものの、修行法や宗教観にはたくさんの共通項があるようだ。そこには、富士山がもつ宗教性が関係しているのかもしれない。




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