あうんさん

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ロックとソウルの歴史㉔「ウィー・アー・ザ・ワールド」

 アメリカのパンクでチャート的に成功したのはブロンディでしたが、イギリスのパンクではどうでしょうか。セックス・ピストルズはアメリカではまったくヒットしませんでした。クラッシュは1983年に「ロック・ザ・カスバ」が全米8位になり、アメリカでの成功を目前にしていましたが解散してしまいます。  実はアメリカで一番成功したのはポリスです。1983年に「見つめていたい」が全米1位になり年間でも1位になっています。ブロンディもポリスもパンクというよりかはニュー・ウェイヴになるのでしょう

    • ロックとソウルの歴史㉓「ビリー・ジーン」

       1982年、ビルボードはソウル・チャートをブラック・チャートに変更しました。名称的にもソウルはなくなってしまいます。  1983年はマイケル・ジャクソンのアルバム『スリラー』の年です。前年12月に発売された『スリラー』からはアルバム9曲中、7曲がシングル・カットされベスト10内に入りました。全米1位になったのは「ビリー・ジーン」とヴァン・ヘイレンをギターに迎えた「ビート・イット」の2曲で、年間でも2位と5位になっています。  アルバム『スリラー』は1億400万枚も売れ、

      • ロックとソウルの歴史㉒「エボニー&アイボリー」

         1979年、マイケル・ジャクソンもディスコに乗っかり「今夜はドント・ストップ」で全米1位になります。1980年には「ロック・ウィズ・ユー」が全米1位、年間でも4位になっています。80年代に入りマイケル・ジャクソンの時代になっていきます。  1978年に全米1位になっていたシックの「おしゃれフリーク」は売れ続け1979年の年間3位になっています。「おしゃれフリーク」に続く「グッド・タイムス」も1979年に全米1位になりました。  同じ年にシックのナイル・ロジャースとバーナ

        • ロックとソウルの歴史㉑「スターティング・オーバー」

           1977年にイーグルスは「ホテル・カリフォルニア」が全米1位になります。1969年以来スピリットは置いてませんという、酒と魂をダブル・ミーニングにしてロックは1969年に終わったと歌っています。  1977年はエルビス・プレスリーが42歳で死んでいます。最期のシングル「ウェイ・ダウン」は全米では18位でしたが全英では1位、年間でも3位になっています。チャートインしたのが151曲、18曲が全米1位になっています。エルビスの死は誰が何と言おうとロックの死と言い切っていいでしょ

        ロックとソウルの歴史㉔「ウィー・アー・ザ・ワールド」

          ロックとソウルの歴史⑳「TSOP」

           モータウンとスタックスが失速していく頃にはフィラデルフィア・インターナショナル・レコードが躍進しています。1973年にオージェイズの「ラブ・トレイン」は全米1位、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツの「ラブ・アイ・ロスト」は全米7位とヒットをとばします。1974年にはMFSBの「TSOP」が全米1位、スリー・ディグリーズの「天使のささやき」は全米2位になっています。フィリー・ソウルと呼ばれ人気を博しました。  1975年はファンク・バンドが人気です。オハイオ・プレイヤーズの

          ロックとソウルの歴史⑳「TSOP」

          ロックとソウルの歴史⑲「バンド・オン・ザ・ラン」

           1971年、ビートルズのメンバーはソロになってそれぞれがヒットします。ジョージ・ハリスンが「マイ・スウィート・ロード」で全米1位、ポール・マッカートニーも「アンクル・アルバート」で全米1位、ジョン・レノンは「イマジン」が全米3位、リンゴ・スターは「明日への願い」が全米4位になっています。ジョージ、ジョンのプロデュースはフィル・スペクターです。  シンガーソングライターの時代になり、職業作曲家だったキャロル・キングは自分でも歌いだします。1971年に「イッツ・トゥー・レイト

          ロックとソウルの歴史⑲「バンド・オン・ザ・ラン」

          ロックとソウルの歴史⑱「スーパースティション」

           1971年、スライ&ファミリーストーンは「ファミリー・アフェア」を1位にします。あれだけ明るかったスライ&ファミリーストーンのサウンドは暗くなり、バンドらしかったサウンドはスライ個人で作り上げたような音楽になってしまいました。  ダニー・ハサウェイは1970年にアトランティック・レコードからデビューします。1972年にはロバータ・フラックとのデュエット「ホウェア・イズ・ザ・ラブ」が全米5位になります。ロバータ・フラックは同じ年に「ファースト・タイム・エヴァー・アイ・ソウ・

          ロックとソウルの歴史⑱「スーパースティション」

          ロックとソウルの歴史⑰「レット・イット・ビー」

            1960年代は映画活動に専念していたエルヴィス・プレスリーは、1968年12月3日のTV番組で久し振りにライブをします。「カムバック・スペシャル」と呼ばれたこの特別番組は72パーセントの視聴率を獲得しました。翌年にはラスベガスのステージでは本格的にライブ活動を再開します。1969年に「イン・ザ・ゲットー」を全米3位に「サスピシャス・マインズ」を全米1位にしてヒットチャートにもカムバックしました。  1969年にはエルビス・プレスリーがデビューしたサン・レコードが売却され

          ロックとソウルの歴史⑰「レット・イット・ビー」

          ロックとソウルの歴史⑯「エブリデイ・ピープル」

           1966年にスティービー・ワンダーはボブ・ディランの「風に吹かれて」をカバーして全米9位にしていました。続いてサム・クックの「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」に影響を受けた「ア・プレイス・イン・ザ・サン」も全米9位にします。  1967年にシュープリームスはダイアナ・ロス&シュープリームスと名前を変えて、ダイアナ・ロスは着実にソロの準備をしていました。  最もヒット曲を作っていたホーランド=ドジャー=ホーランドは、自分たちがそれに見合う正当なお金をもらっていないと19

          ロックとソウルの歴史⑯「エブリデイ・ピープル」

          ロックとソウルの歴史⑮「ドック・オブ・ザ・ベイ」

           アトランティック・レコードのジェリー・ウェクスラーはウィルソン・ピケットをスタックス・レコードに連れて行きます。1965年に録音された「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」は全米チャートでは21位だったもののリズム&ブルース・チャート1位になります。スタックス・レコードとうまくいかなくなったウィルソン・ピケットはアラバマ州マッスルショールズのフェイムスタジオへと行きます。ここで録音した「ダンス天国」は1966年に全米6位になりヒットします。  マッスルショールズのフェイム・ス

          ロックとソウルの歴史⑮「ドック・オブ・ザ・ベイ」

          ロックとソウルの歴史⑭「グッド・ヴァイブレーション」

           1965年にボブ・ディランが「ライク・ア・ローリングストーン」で全米2位になります。バーズはボブ・ディランの「ミスター・タンブリンマン」をカバーして全米1位のヒット、ボブ・ディランとビートルズをかけあわせた音楽はフォーク・ロックと呼ばれました。エルビス、ビートルズとロックンロールはラブソングが主流だった歌詞に、フォークからの政治的な歌詞やボブ・ディランの詩的な歌詞によりロックへとなっていきます。サム・クックの政治的な歌詞によりリズム&ブルースがソウルになっていくように。

          ロックとソウルの歴史⑭「グッド・ヴァイブレーション」

          ロックとソウルの歴史⑬「マイ・ガール」

           1963年11月30日からビルボードはリズム&ブルースのチャートを廃止していました。1964年7月2日には黒人差別を禁止した公民権法は制定されました。しかしその夏にニューヨークのハーレムで白人警官が黒人少年を射殺したのが原因で暴動が起こります。1964年12月11日にはサム・クックがロサンゼルスのモーテルで射殺されました。サム・クックが殺された翌月の1965年1月30日には再びリズム&ブルースのチャートが復活しています。再開したリズム&ブルース・チャート1位はテンプテーショ

          ロックとソウルの歴史⑬「マイ・ガール」

          ロックとソウルの歴史⑫「抱きしめたい」

           ロック史ではアメリカでイギリスの音楽はビートルズ以前に受け入れられなかったと語られがちですがまったくの嘘です。イギリスでスキッフル・ブームを巻き起こし、ビートルズにも影響を与えたロニー・ドネガンの「ロック・アイランド・ライン」は1956年に全米8位に入っています。  1959年のクリス・バーバーの「可愛い花」は全米5位、1962年にはケニー・ボールが「モスコーの夜はふけて」で全米2位、アッカー・ビルクの「白い渚のブルース」はイギリス人として初の全米1位、年間でも1位の快挙

          ロックとソウルの歴史⑫「抱きしめたい」

          ロックとソウルの歴史⑪「ツイスト」

           1960年にハンク・バラード&ザ・ミッドナイターズは「フィンガー・ポッピン・タイム」が全米7位、「レッツゴー・レッツゴー・レッツゴー」を全米6位にしています。  テレビ・パーソナリティのディック・クラークはフィラデルフィアのカメオ・パークウェイ・レコードにハンク・バラードの「ツイスト」をカバーすることを薦めます。  言われるがままにチャビー・チェッカーが「ツイスト」をカバーします。ディック・クラークは自分の番組『アメリカン・バンド・スタンド』で取り上げて大ヒットになりま

          ロックとソウルの歴史⑪「ツイスト」

          ロックとソウルの歴史⑩「プリーズ・ミスター・ポストマン」

           デトロイトで設立されたモータウンレコードは1960年にミラクルズの「ショップ・アラウンド」が全米2位になり初の全国的ヒットになります。1961年にはマーベレッツの「プリーズ・ミスター・ポストマン」で念願の全米1位をものにします。後にビートルズがアルバムでカバーしたり、1975年にはカーペンターズがカバーして全米1位になっている名曲です。  1962年にはメアリー・ウェルズが「ワン・フー・リアリー・ラブズ・ユー」を全米8位にします。1963年にはマーサ&ヴァンデラスが「ヒー

          ロックとソウルの歴史⑩「プリーズ・ミスター・ポストマン」

          ロックとソウルの歴史⑨「アイ・キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」

           レイ・チャールズはリズム&ブルース・チャートではトップ10ヒットを連発していましたが、ポップ・チャートではなかなかヒットが出ませんでした。1959年にようやく「ホワッド・アイ・セイ」が全米6位になり白人の間でも人気になります。  このヒットを足掛かりに1959年の終わり、アトランティック・レコードからメジャーのレコード会社のABCパラマウントに移籍します。1960年に「我が心のジョージア」、1961年に「旅立てジャック」、1962年に「愛さずにはいられない」と全米1位を連

          ロックとソウルの歴史⑨「アイ・キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」