はじめに〜純粋芸術的コラムのすすめ
全く実用的でない類のことを書くためにこのスペースを始める。ただお楽しみいただくだけの、役に立たないことを書いていきたい。
論文を書くことが好きなので、社会人になってから人文系の大学院に入って、「西洋におけるアンドロギュヌス美の表象文化史~古代ギリシャからルネサンスにおける芸術革命まで~」とか「フィギュアスケートにおけるクロスジェンダリズム」という修士論文を書いた。
「役に立たない研究をしたいの」
と、自信をもって語ってきた。知的好奇心から楽しく読んでもらえる論文を書きたいと思っていた。
しかし、論文とは面白いものではないし、社会に貢献する要素が必要との教えを受けた。ライターとしての流儀で、同じ語の使用を避けて豊富な語彙を用いて書いたら、それは論文の手法でないと言われた。
それでも、一般の人が読んでも面白い論文を目指し、自信をもって語ってきた。
「私はね、役に立たない研究をしたいの」
ところがあるとき、社会に貢献できる学問を究めるために留学を控えている若い女子に言われてしまった。
「そんなに自分を卑下することはないわよ」
彼女の方も自信たっぷりで自分の研究テーマについて語り、あなたのテーマが自分のキャリアに役立つのなら頑張ればいいいわ等と言われたが、そんなことは全く考えていないし、実際、キャリアの役には立たない。
「あたし、プラグマティズムってキョーミないの」
などと反撃すればよいのだが、理解してもらえそうにないので、ただの変な人として記憶してもらうことにした。
それだけが理由ではないが、色々あり、博士課程に進学するのは断念することになった。論文を書くのもやめてしまった。その程度の情熱だったので致し方ない。
ところで、純粋芸術と応用芸術の差異は有用性の有無によるらしい。純粋芸術とは、「美的・知的な目的のために創作されたもの」で、応用芸術とは機能性(実用性)を伴うものと解釈できる。どちらが偉いというわけではないが、そのような定義になっている。
それならば、実用的ではない論文も、「純粋芸術的」論文として認められてもよいのではないだろうか? いや、世界的に人文学(リベラル アーツ/ユマニスム)的な研究はの価値は認められているはずだ。
しかし、日本では2015年に国立大学文系学部縮小という愚策が打ち出されたことに象徴されるように、実用的でない学問が軽視される傾向があることは否めなないだろう。
そんなこともあり、しばらく書くことから離れていたのだが、もう余命いくばくもないので、実用性のない、ファインアート的な文章を存分に書いてみたいと思う。論文ではなく、コラム/エッセイとして。
みなさんもいかが? 有用情報なしの、ただ文章をお楽しみいただくためのコラム。リンクとかなしで、ただ書くことを楽しみ、読むことを楽しんでいただく、純粋芸術/ファインアート的なコラムです。という夏のオススメ。
I am starting this space to write about what is not useful at all, like fine arts.
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