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Forever JUN

2020年12月19日

J1昇格決定の余韻冷めやらぬアビスパ界隈にひとつのニュースが飛び込んだ。

かつてアビスパユース最高傑作と謳われ、トップチームでも11年間リーグ戦293試合23得点を挙げた天才レフティーの契約満了。

長谷部サッカーの加速。新加入選手の躍動。

そんな中で覚悟していたサポーターも多かったかもしれない。

しかしいざ正式なリリースが来るとやはり寂しい。

もう2度とアビスパの選手としてプレーする事が無いであろう事を考えるとより一層。

鈴木惇とアビスパの歴史

2007年~高校生Jリーガー~

私が初めて鈴木惇を見たのは彼が高校3年の時だった。

彼はアビスパ史上初めて高校生Jリーガーとしてトップチームに昇格した。

その彼が途中出場で博多の森のピッチ立った。

J2降格してきて1年でのJ1昇格が絶望的になったクラブにおいて、高校生ながらトップチームでプレーし、世代別代表でも主力として活躍していた彼の存在はクラブの希望そのものだった。

2008年~トップチーム昇格~

その年。順当に彼はトップチームに昇格した。

背番号は18。

当時は今のようにボランチとしての起用よりはサイドハーフとしての起用が多かった。

右サイドハーフの印象が個人的には強いが、本人に聞いてみたところどちらのサイドが得意という意識は特に無いとのことだった。

シーズン終盤になるにつれどんどん出場機会を増やし、ホーム最終戦の湘南戦では左足のゴラッソも決めて見せた。

2009年~孤軍奮闘~

この年のシーズンオフにはスペインのヘタフェに練習参加しにいっている。

クラブからの期待値の高さ。彼自身の評価の高さが現れている。

当時はいずれ海外移籍することも視野に入れていただろうし、目標も10ゴール10アシストを掲げプロ2年目のシーズンに突入した。

背番号も8番に変更。文字通り蜂を背負う存在としての期待をされた。

しかしアビスパにとっては思うようにいかないシーズンだった。

リトバルスキー解任後の篠田体制になってからの勢いは影を潜め最終順位11位と低迷。

新加入ボランチウェリントンらが思うように機能しない中、惇はボランチとして多くの試合に出場し持ち前の展開力を発揮した。

本人もサイドよりボランチとして勝負したいと話すようになった。

実質プロ2年目ながら、彼は既にアビスパの中心だった

2010年~J1昇格~

この年も主力ボランチとしての活躍が期待されたが、新加入中町公祐と末吉隼也の台頭により序列を落としてしまう。

そんな中でも2人の欠場時にはボランチだったり、あるいはサイドのポジションだったりと24試合に絡み昇格へ導いた。

中でも富山戦で直接CKを入れたゴールは、彼のキャリアの中で最も印象に残っているゴールだ。

初観戦に来てくれた友人も「凄いね!あの選手!」と驚いていた。

「博多の一休」というキャッチフレーズが生まれたのもこの時だ。

2011年~初のJ1挑戦~

この年はキャリア初のJ1挑戦となった。

中町公祐の怪我もあり30試合に出場するもチームは降格。

またこの年は震災の年でもあり、シーズン終了後のチャリティーマッチにアビスパからは惇が出場することになった。

その試合で彼は左足のミドルをぶち込み胴上げされている。

2012年~クラブ史上最悪のシーズン~

漢前田監督を招聘し「全攻切守」を標榜したシーズン。

チームの核だった中町公祐がマリノスへ移籍。

末吉隼也とのダブルボランチを結成。

36試合に出場するもクラブは低迷。

全攻切守とは名ばかりで、結局軸みたいなものが無い中で各々がどうにか戦っていたシーズンだった。

シーズン終了後。

自らの持ち味が生きるパスサッカーを標榜していた東京Vへの移籍を決意した。

2015年~アビスパ復帰。そして2度目のJ1昇格〜

川森社長就任、井原監督招聘し新体制になったシーズン。

アビスパ色の強い選手にオファーしたチームの呼びかけに応じ3年ぶりにアビスパに復帰

同じく復帰した末吉隼也とダブルボランチを再び結成。

前回の昇格時とは違い、惇は完全にチームの主軸として活躍。

ボランチながら積極的な飛び出し、最大の武器である左足のプレースキックも見られチーム最多の9得点7アシストを挙げ大きく昇格に貢献した。

2016年〜2度目のJ1挑戦〜

自らの持ち味である左足のキック精度と攻撃力を活かし、J1昇格に大きく貢献した翌年。

2度目のJ1挑戦も厳しい戦いとなった。

開幕3試合はスタメンとして出場するものの、チームが中々勝てない中で井原監督はより守備を優先に考えた選手起用をするようになっていった。

それに伴い守備に課題を抱える惇の出場機会は徐々に減っていった。

結局出場はわずか9試合に終り、翌年大分トリニータへのレンタル移籍が発表された。

2018年〜2度目のアビスパ復帰〜

2017年。名古屋との昇格プレーオフに引き分け1年でのJ1復帰を逃したアビスパ。

チームは鈴木惇のように展開力に長けたボランチを欲していた。

同シーズン大分で主力として活躍していた惇はアビスパへの復帰を決意した。

「アビスパで出場機会があるか分からない。それでもやっぱり育ったアビスパで戦いたい」

決意のアビスパ復帰だった。

私自身も彼の復帰を粋に感じ、レプユニを彼の番号にする事を決意した。

復帰した彼はチーム最多の41試合に出場。6ゴール5アシストと結果を残す。

シーズン途中からはキャプテンに就任した。

しかし後半失速しプレーオフ圏外の7位でシーズンを終えてしまう。

2019年~苦悩のキャプテン~

某イタリア人監督が就任。

惇は前年に引き続きキャプテンを託される

しかしスタイルが固まる前に家庭の事情でイタリア人は帰国。

後を引き継いだ久藤監督の元で奮闘するも、チームが機能していない中での活躍は困難だった。

チームの成績に伴い、雰囲気もそれ程よく無い中でのキャプテンの仕事は困難だったろう。

それでも最後まで試合に絡みつづけ、最終的には何とかチームを残留させた。

菊地によれば「惇は抱え込みすぎていた」との事だった。

キャプテンとして、ユース出身として何としてもJ3降格だけは避けたいという思いで戦ってくれていたのだろう。

2020年〜アビスパラストイヤー〜

長谷部監督就任。

チームが長谷部監督の元でスタイルを築こうとしている中、長谷部監督のサッカーの特徴に合っていない鈴木惇がフィットできるのか。

開幕当時から疑問視されていた。

しかし開幕戦の福岡ダービーに途中出場。

前寛之と重廣離脱時には出場機会を得た。

その際には長谷部監督のサッカーに順応し球際で激しく戦う彼の姿が見られた。

そして今年も最大の武器である左足からのFKを無観客の長崎戦で沈めている。

しかし松本泰志加入、前寛之と重廣復帰後は長谷部サッカーの特徴にあった彼らが出場機会を得た。

それに伴い鈴木惇は徐々に出場機会を減らしていく。

正直このままアビスパに居ても、来季の出場機会は望めないかもしれない。

その一方でアビスパは長谷部監督の元でJ1昇格を果たす。

その3日後に鈴木惇契約満了のニュースが発表された。

ありがとう!鈴木惇!

惇がトップチームに2種登録された時から見てきた身としては今回の退団は物凄く寂しい。

他のサポーターも同じ気持ちだろう。

彼の左足のキックで何度スタジアムが沸いたか。何度助けられてきたか。

計り知れない。

鈴木惇にとってアビスパが特別なクラブであるように、我々にとっても鈴木惇は特別な選手だ。

彼がいう通り、もう惇が選手としてアビスパ福岡でプレーする事は無いかもしれない。

しかしユース出身として多くの試合に出場しキャプテンまで務めた経験は大きな財産。

それを何らかの形でアビスパにまた還元して欲しいし、また共に戦いたい。

本人が言う通りまだまだ彼はやれる選手。

左足の精度、運動量。一向に衰えていない。

新天地でまた一花咲かせてくれるはず。

ただその前に。


明日はアビスパの最終戦がある。

彼のアビスパでのリーグ戦294試合目が見られるのを楽しみに、私は8番のユニフォームでベススタに駆けつける。

ありがとう鈴木惇。また会おう!

アウェイでバモるサポーターがひとり増えます