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藍でつくられる色ⅱ − 瓶覗 水色 浅葱色

   瓶覗

藍の単一染で一番薄い色を「瓶覗」(かめのぞき)と呼びます。「覗色」とも呼ばれ染法から由来しているともいわれます。藍瓶の染液が使用され続け、最後は微かな色しか染まらなくなった液に一寸浸す意味です。もう一つの解釈として、水の張られた瓶に映った空の色を覗き見た色のようだという説もあります。近年は名称の響きや希少な出来事ように語られた藍の染め方に、モノ(藍)を大切にする愛おしさも相俟って知名度もあります。江戸後期には名称が見られますので、極薄い藍の色が生活の中で判断・記憶され、表現豊かな名称が付けられていることに藍の文化を感じます。江戸町民が水色や浅葱色との僅かな色の差異を名付けて共有し、楽しんでいた心意気がうれしいです。

一番薄い色が染め初めの色でなく、最後の色なのも心ひかれることなのかも知れません。藍を管理していて醗酵の具合や、染め続けたことによって疲れた藍還元菌を回復するために灰汁や石灰と麸を入れます。藍瓶の中に入っている堅木から取った灰汁は、藍の醗酵に欠かせないミネラル成分が入っています。その灰汁の成分には色を抜く性質も内在しています。化学建てに使われる苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)もハイドロサルファイト(亜ジチオン酸ナトリウム)も還元剤と漂白剤の性質を持っています。藍菌の壮年期は絶妙なバランスで増殖する環境が整えば、毎日染めていても菌の活動で直ぐ染まる状態になりますが、少しづつ回復することが鈍くなります。染まった布、糸から灰汁(木・藍の両方)の抜けも悪くなり、一層染上がりに注意が必要になります。

数ヶ月以上使い続け、液の中に藍分が無くなる時が近づくと雑菌も多くなります。様々な過程を経た時期に染めるわけですから、やはり染めていて力尽きる前の藍菌が、最後まで色を出してくれている様子を毎回愛おしく思うのです。

   水色

水色が平安時代に用いられるようになる起こりは、『万葉集』で見られる「水縹の帯」からきているといわれています。奈良時代は藍で染めた色の濃淡は「縹」を基に、深・中・次・浅の4段階で表し「深縹」などと用いられていましたので、水縹はその後に生じたと思われます。律令時代に導入された漢字と概念は、日本人には馴染みの悪いものだったのかも知れません。「水色」「空色」など少しずつ自分の感覚に合う新しい表現を漢字で表すようになり、藍で染めた微妙な色の相違にも新しい言葉がつくられて興味深いです。

11世紀後半ごろの王朝物語『夜の寝覚』に「こくうすく水色なるを下にかさねて」、歴史物語『栄花物語』には「大海の摺裳、水の色あざやかになどして」と平安文学の中で使われるようになります。室町時代の軍記物語『太平記』にも「水色の厚総の鞦(しりがい)に」と見られ色名は貴族から武家へも浸透します。江戸時代には藍の栽培が奨励されると浅葱色とともに、町人の着物の色に水色が愛用され『御ひいながた』寛文6年(1666)発刊の小袖地色にも見られます。西鶴の浮世草子『好色一代男』天和2年(1682)の中にも「水色のきぬ帷子(かたびら)に、とも糸にさいわい菱をかすかに縫せ」と夏の衣装についての表現もあり、延宝–天和期(1673–84)には水色の流行があったようです。

水色は水の色を模した薄い緑みの青です。似た色で「水浅葱」という色もあり、延喜式の「浅縹」「薄縹」の色名も見かけます。微妙な違いを現在はマンセルの色相記号で理解できますが、当時はどの位意識して使い分けていたのでしょうか。水浅葱は浅葱色を更に薄くした色で、水色がからせた色とのことです。江戸時代に水浅葱は多く使われていて、雑俳・鳥おどし には「是非ともに・京へやらしゃれ水浅葱」(1701)講談本・当風辻談義の中に「町人の葬礼に水浅葱の上下着るを笑ひ」(1753)浄瑠璃・国性爺合戦「水浅葱のもも引しめてはおりきて」(1715初演)と少し意味のある色のようです。『俳風柳多留』に「おやぶんは水浅葱迄着た男」という川柳があり、囚人服が水浅葱だったことからです。天明4年(1784)『女萬歳寶文庫』

に水浅葱の染法は常木/臭木(くさぎ)の実を煎じつめて染めると書かれていて、同様の染法を載せた書物類が江戸時代初期の頃から見られることから、藍草以外で得た青色も併用して使われていたと考えられます。

明治になっても水色・水浅葱の色は、二葉亭四迷・樋口一葉・泉鏡花・永井荷風・森鴎外・島崎藤村など文学者に多く使われました。

   浅葱色

浅葱色は薄い青味がちな青緑色のことをいいますが、わかい葱の葉に因んだ色名で平安時代の文学作品『源氏物語』『枕草子』『宇津保物語』などに見られるほど古くから使われています。縹色・千草色よりは薄い色ですが、藍で染めた色名であったのかは千草色と同様にわかりません。平安中期に浅葱色の表記に浅黄の字を使ったことから、青と黄の色相が混同され「あさき黄いろなるをもって浅黄と唱ふるよし」と『延喜式』で書かれているように、本来は刈安を使って染める黄色と浅葱色が間違えられることになります。すでに平安後期(1169頃)『今鏡』に「青き色か黄なるかなどおぼつかなくて」と書かれているように、この頃多く使用される「あさき色」に混乱が見られます。 嘉禎年間(1235–1238)『錺抄』土御門通方での記載でも確認できるように、黄袍であるべき無品の親王の袍に浅葱色(青)を着用することもあったようです。

この「浅葱」「浅黄」の誤用は後の世まで続き、多くの識者が書物で問い糺しています。『安齋随筆』伊勢貞丈(1717–84)では「アサギと云ひて浅黄を用ふるは誤りなり、浅葱の字を用ふべし」と記し、『玉勝間』(1795–1812) 本居宣長では「古き物に浅黄とあるは、黄色の浅きをいへる也。然るを後に、浅葱色とまがひて、浅葱色のことをも、浅黄と書くから、古き物に浅黄とあるをも、誤りて浅葱色と心得られたる也」と書かれています。『守貞漫稿』(1837–53) 喜多川守貞編の風俗事典でも「今俗に浅黄の字を用ふれども仮字のみ、黄色に非ず」といつまでも誤用して使われている現状に数百年もの間、色名・色相の解釈を糺そうとしている様子が伝わります。

浅葱色が庶民に広まったのは江戸時代で、千草色より頻度も多く書物に書かれるようになります。江戸中期以降には浅葱色が流行して、滑稽本の『古朽木』の中でも「尤も当時何もかも浅黄が流行(はや)りますゆゑ『世の中は浅黄博多に浅黄紐、あさぎの櫛に浅黄縮緬』とも詠みて、近年の利物(ききもの)なれども」とも書かれています。下級武士の羽織裏に「浅葱木綿」が使われたり、新撰組の段だら模様の「羽織」、歌舞伎の「浅黄幕」など伊達を好む遊人にも、無粋な武士にも、そして農民や庶民に多く用いられた色でした。

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院

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https://www.japanblue.info/about-us/書籍-阿波藍のはなし-ー藍を通して見る日本史ー/
2018年10月に『阿波藍のはなし』–藍を通して見る日本史−を発行しました。阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたいと思い、藍の周辺の歴史や染織技術・文化を調べはじめた資料のまとめ集です。


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