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藍でつくられる色ⅲ −千草 縹 御納戸色

   千草

千草「ちぐさ」は夏になると青い花を咲かせる露草の古称「つきぐさ:鴨頭草」の名から転訛したといわれ、露草の花のように明るい青色をいいます。源順が平安時代の承平年間(931–938)に編纂した辞書『和名類聚抄』に鴨頭草は「都岐久佐」「押赤草」と記載があります。鴨頭草の名称は延喜式・内蔵寮や万葉集にも見られます。月草とも表記され万葉集には9首詠まれ、染め色は水に色が落ち褪めやすいことから、心変わりをたとえたり、この世のはかない命をあらわし詠まれています。古にはアオバナ・アイバナとも呼ばれ、花を摺り染に用いてその色を縹色と呼び、光や水での褪色が早いことから藍草が大陸から渡来すると廃れたと多くの書物に書かれています。近世にはこの水に弱い特性を活かして、友禅染や絞染の下絵描きに用いられていますが、藍草との混同や推移が平安時代にあったとは思えません。『和名類聚抄』の記載も藍と鴨頭草は並列して編修されています。いつから千草が藍で染めた色を示すようになったのかは分りませんが、染め色の千草と染料の月草/露草とははたして関連があるのでしょうか。

『日本永代蔵』巻5 井原西鶴 貞享5年(1688)には「あさぎ(浅葱)の上をちぐさ(千草)に色あげて」と書かれていて、江戸時代になると千草色の名称は浅葱色とともに書物に多く見られます。千草色は主に商家の使用人の仕着せの色、丁稚の股引の色、庶民の日常着の色に使われていました。リユースの典型的な事例で、浅葱色に褪せたものを再び藍で染め直し千草色にした様子がわかります。物資の少ない頃は町人も農民も衣類の繕い•染直しは当然の知恵で、美しく長い使用に耐える工夫をしていました。

江戸時代後期に刊行された『手鑑模様節用』(1801–29)には京都と江戸に店舗を構えていた呉服商梅丸友禅が、古今の染色を色譜によって空色を解説している中で「花いろよりうすくあさぎよりこい……京師にてそらいろをちくさいろといふ」と書かれています。空色の色名も古くから使われていて源氏物語の中に見られますが、まだ染色名ではなかったようです。江戸中期ごろの『紺屋伊三郎染見本帳』に空色の色名が見られ、染法は記されていませんが藍で染めた後に蘇芳で染めたといわれています。空色は千草よりも明るい青色だったかも知れませんが、同じくらいの色相だったと思います。

   縹 - 花田

縹は「はなだ」と読み、持統天皇4年(690)に初めて色名が確認できます。最初の服色制度として冠位十二階が施行され、これまで使われていた位色の「青の大小」から「深縹・浅縹」に表記が変わります。この時代の青の色名と色の解釈はまだ推定のままですが、後の延喜式縫殿寮には縹が深・中・次・浅の4段階に分けられ、色を得る為の材料用度からも「縹」は藍で染めた純粋な青色です。

今では余り馴染みのない漢字「縹」は中国の後漢時代に文字の意味を説いた『釈名』に「縹ハ漂ノ猶シ。縹ハ浅青色也」と『説文解字』にも「帛の青白色なるものなり」と書かれているように淡い青色でした。奈良時代は秦漢の影響を大いに受入れていますので、日本で「はなだ」と呼ばれていた色が、中国では「縹」と呼ばれている色名・色相と染法だったため、文字だけ用いられたと考察されています。そして日本固有の「はなだ」と呼ばれていた浅青色の染料は「鴨頭草」だと考察されています。公文書の中には「縹」の字はその後も散見しますが、平仮名が現れてからは源氏物語・蜻蛉日記の中に「あさ花だ」と書かれているように「はなだ・花だ」と同じ表音で表記されることが多くなります。室町時代になると古今連談集などには「はなだ」も見られますが、「花だ色」「花色」という表記も見られるようになります。

江戸時代になって藍の生産が増え、木綿の着物が市井の中に広まるとともに「花色木綿」「花色小袖」「花色羽織」「花色小紋」「花色繻子」と盛んに用いられ『好色一代男』『新色五巻書』『洒落本・辰巳之園』など多くの書物に藍で染めた色が「花色」の表記で書かれています。『書言字考節用集』六巻では「縹色ハナダイロ 花田色ハナダイロ」と同色を意味するように書かれています。江戸時代の人口80%程を占める農民の衣類には、木綿・麻藍染無地・縞、衿・袖口は花色・浅黄・萌黄の木綿無地というように厳しい制約がありました。庄屋には紬や絹を認める事もありましたが、色はほとんど似たようなもので茶の堅魚縞が認められていました。多くの人たちが着用している藍染の布帛類の色は、藍色とは呼ばれていませんでした。

江戸時代までは花田色や浅葱色は藍の染料だけで染めた色だと考えていたようです。現代では藍で染めた色といえば藍色を示し、書籍やメディアや人々の間で広く使われています。

    御納戸色

2015年の展覧会で「藍によって作られる色」を主題に作品の展示を行いました。藍以外の染料のことは専門ではありませんし、それほど経験を積んだ訳でもありませんが、江戸時代の文献をみていて試してみたくなったのです。紺屋の仕事の形態で、糸染め(先染め)専門と後染め専門の呼名が各地に残りますが、藍以外の染めも併用していたのは主に後染め紺屋でした。

江戸全期を通して茶系統の色が最も多く流行色になりましたが、中期以降藍系統も江戸前のクールな色として愛用されるようになりました。阿波藍の生産もこの頃から飛躍的に多くなります。

「御納戸色」は灰味の暗い青色で、藍玉の単一染と書かれています。納戸系統の染色は茶、鼠系統と共に好まれ江戸中期ごろの代表的染色になります。江戸後期になると微妙に違う色の染め分けも流行色となり、下染めの藍の濃度、併用して染める矢車、茅、刈安などと媒染剤の鉄、酸で調整し染色していました。下染めの藍が濃花色で「錆鉄御納戸」空色で「鉄御納戸」濃浅葱で「御召御納戸」を染め分け、「錆御納戸」「御納戸茶」「高麗納戸」など同じようで少しずつ違う色も名付けされています。染め布の素材の違いによっても色の雰囲気は変わりますので、呉服屋と紺屋との心をくだく連携も想像できます。

納戸色・御納戸色の呼称の由来ははっきりしませんが、納戸(屋内の物置部屋)の垂れ幕に用いられた布の色からとか、藍海松茶の絹を納戸へおさめ、年が経って見ると色が損じて面白き色だといって名付けたともいわれています。
「粋」という好みを希求した江戸人の要望に、紺屋の技量が応えて優れた染色文化を作り出しました。この時代の町人の着物は浮世絵が書画の中では見られますが、裂の状態では殆ど残っていなくて残念です。

参考:「日本の伝統色」長崎盛輝 京都書院

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https://www.japanblue.info/about-us/書籍-阿波藍のはなし-ー藍を通して見る日本史ー/
2018年10月に『阿波藍のはなし』–藍を通して見る日本史−を発行しました。阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたいと思い、藍の周辺の歴史や染織技術・文化を調べはじめた資料のまとめ集です。


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