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曽祖母との思い出

年末が近づいて、大掃除の時期になってきた。
ここ数ヶ月は少しずつ断捨離をしたり掃除をしたりしていたはずなのに、どうも部屋が片付かない。
さすが実家。物が多すぎてどうにもならない。
大学に入った頃からぼちぼちと物の整理はしているはずなのに、いつまで経っても終わらない。
小学生の頃からの積み重ねって、すごいものがある。

机の上にある棚に、無造作に突っ込まれている本やファイルたち。
ファイルから出ている書類なんかもあって、なんか大変なことになっていた。
久しぶりにその棚の片付けに手をつけた私。
棚の一部に、手紙が保管されている場所があった。
記憶の中よりも量が減っていたから、いつかのタイミングで処分をしたのだと思う。
改めて手紙類を見ていたら、曽祖母からの手紙を見つけた。

メモのようなもの
よく覚えているものだ

曽祖母は大正生まれで、この手紙を書いたときは90歳だったよう。
私が小学6年生の頃にもらった手紙だった。
戦時中を生きた女の人には珍しく、きちんと学校に通って学ぶことができた人だった。
詳しく話を聞いたことはなかったけど、おそらく実家が裕福だったのだと思う。
ひらがなもカタカナも、漢字も書くことができる人だった。

私が保育園の年長だった頃、父方の祖父母宅に住んでいた。
当時は曽祖母と祖父母、両親、私、そして叔母という、3世代同居をしていた。
看護師の叔母は勤務が不規則であまり会わなかったため、家の中で見かけると「〇〇ちゃんだ!」とくっついて回っていたらしい。
その記憶は確かにある。
叔母とは二十歳違い。家の中で一番歳が近いのが叔母だったから、懐いていたのだと思う。

そんな叔母より私が懐いていたのは、曽祖母だったと思う。
よくおばあちゃんっ子とかおじいちゃんっ子とか言うけど、私はひいばあちゃんっ子だった。
保育園から帰るとまず仏壇に挨拶をしに行き、その後はずっと曽祖母と一緒に過ごしていた。
手紙を書いて交換しあったり、テレビを眺めたり。
曽祖母に懐く人は珍しく、曽祖母に可愛がられる人も珍しかったそう。
曽祖母からいじめられていた祖母はともかく、祖父も父親も疎んでいるような、そんな人。
だからこそ余計に可愛がられたのかもしれない。

曽祖母は頭のいい人だった。
戦時中じゃなくて、こんな田舎に生まれていなかったら大学に行っていたんだろうな、と思うような人。
だからか、頭のいい人を好いていたそう。逆に言うなら、そうでもない人のことを嫌っていた。
そんな中で可愛がられた私の方が珍しかったという親戚たちの意見には、少し納得をする。
他に可愛がられていたという親戚は叔父くらいしか聞かない。

叔父は普通科高校を卒業してから、1年浪人して地方国立大に合格したという、私とまったく同じ経緯で大学に進学している。
ちなみに、近い親戚で大学に進学したのはこの叔父だけ。
別にみんな頭が悪かったわけではないと思う。ただ、時代と地域が悪くて勉強できる環境にいなかった結果だと思う。
私が普通科高校に進学したという時点で、親戚の中では珍しい方に入る。そのくらい、普通科高校に進学する人がいなかった。
そして、普通科高校に進学をしなければ大学受験なんて遠い世界の話になってしまう。

曽祖母は私が高校1年生のときに亡くなった。3月1日だったような気がする。
定期試験の直前だったこともあり、ドタバタの帰省となった。
さすがに帰らないという選択肢はなかった。父親が長男だったから。長男一家が帰省しないとは何事だ、と言われかねないような場所だもの。
小学4年生の頃に、曽祖母から「あわふじはこんな漢字も書けないのか」と手紙を見て言われたことを知り、「もう手紙は書かない!」と私が怒ってから、曽祖母とのやりとりの頻度は格段に下がっていた。
そんな中でも送ってくれていたのが、小学6年生の頃にもらったあの手紙である。

あれだけ懐いていた曽祖母だったけど、触れることはできなかった。
飼っていたハムスターが亡くなったときもそうだったな、と思い出す。
なんと言ったらいいのか分からない。ただ、怖かったのだと思う。
生きていた人が、少し前まで動いていたはずの人が、冷たくなっていてもう二度と動かないということが。
命あったものが、姿形はそのままでただの物質になってしまったということが、怖かったのだと思う。
おそらく、今でもそう思う。

そう思っていたからか、骨になって出てきたのを見たときの方がどこかホッとした。
その方が、もういないんだなというのを受け入れやすかった。
幼い従姉妹たちがあまり理解できずにはしゃいでいたのもあったかもしれない。
当時、その従姉妹たちは3歳と2歳。曽祖母のことは覚えていないと思う。
こう言い切れるのは、私の母方の祖母と曽祖母が3歳と4歳のときに亡くなったから。
4歳だった曽祖母のことだけはうっすらと覚えているような気はするが、3歳のときの祖母の記憶はまったくない。
だからそう思う。3歳の出来事はほぼ覚えていない。2歳ならなおさら。

いとこたちの中では最年長で、曽祖母との関わりも一番多かったのは私だと思う。
そんなひ孫だったのに、このまま忘れ去ってすべてをなかったことにするのもなんだかなあ、という気持ちになった。
曽祖母が亡くなってから、親戚から曽祖母のいろんな話を聞いた。
かなりいろんな酷いことをしていたし、嫌われたり疎まれていたのも納得できるような人だった。
それでも私が曽祖母を好きだったという事実は変わらないなあ、と思い。
私だけでも曽祖母はいい人だったよ、と言う。

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