awai
Twitterのつぶやきの長いバージョンみたいなやつです。だらだら喋ります。
旅行ってどこからを旅行にするか難しいですよね、距離より気持ちな気がするけど結局距離に頼りがち
よかったらわたしが撮った写真みてってくれ〜〜!
徒然なるままにってやつです
awaiが読んだ本かつおすすめしたい本のまとめ
こんばんは、awaiです。 今更ですが自己紹介をしたくてnoteを開きました。よかったらぜひ読んでいってください。 名前はawaiです。もちろん偽名です。曖昧なものも大切にしたいなぁと思ってawaiと名乗り始めました。それなのに白黒つけたがりな人間です。グレーのグラデーションも愛したいなと思っています。 2001年生まれの天秤座。幼い頃から、ネットや本の性格診断や占いをするとほぼ100%の確率で芸術家肌と書かれます。性格診断や占いって本当に当たるのでしょうか。ほぼ毎回書
ミステリアスな人に憧れる。自分がミステリアスとは真逆の人間だから憧れているんだと思う。 当たり前だが、snsや創作をする人は、ミステリアスか等身大かのどちらかだと思う。真ん中の人をあまりみたことがない気がする。多少はいるけれど、希少だと思う。 ミステリアスな人は、どこまで発言してどこまで発言しないかを意識的に決めているのかなって勝手に思っている。逆に、意識的に等身大な人は結構いると思う。 (わたしの好きな音楽家はそうなだけかもですが)音楽家はミステリアスな人が多い気がす
性善説を信じている。しかし、やさしさにもいろんな種類があって、生きていく上で獲得してきたやさしさというものもあると思っている。境遇、勉強、人間関係などいろんなことを経験して、考えて、この世にやさしくありたいと願っている人はやさしいと思う。生きてりゃいいことも辛いこともあるが、わたしは周りにやさしくありたい。わたしはやさしくありたいが、やさしくなれない人はやさしくなれないだけの理由があると思うので、絶対に責めずにいたいと思う。 時と場合によるが、正論はやさしくないことが多い。
1ヶ月前、友人と富士山見に行きたいよねって話になり、昨日、富士山を見に行ってきた。 当日友人の家まで迎えに行って、どこまで行くか決めた。行っても富士市くらいまでかなってなんとなく想像していたが、スマホで富士山がよく見えるスポットを調べている最中の友人が「湖…山中湖……」と呟いて、わたしが「山中湖!?行くかぁ!」と言い、山中湖に行くことが決定した。朝9時の話。 わたしと友人は、真面目な話もするし、近況報告もするが、生産性がないと言われればそれまでのくだらなさすぎる話が好きで
普通に横断歩道を渡ろうとしたら、車の中の人に「馬鹿が!」って叫ばれて1日がはじまった。歩行者優先って知らないのかな。そっちだろうがって呟いて誘引を下げた。こういう出来事があると普通に落ち込むんよな。落ち込む必要なんてないのに。 〜〜〜 夏葉社という出版社をされている島田潤一郎さんの本を買った。みすず書房から発売された「長い読書」という本だ。読むのが楽しみ。 島田さんの書く文章と、島田さんがつくる本が好きだ。全部は読めていないのだが、すごく肌に合う感覚がある。いつか機会が
小学生の帰宅時間にドライブをしていた。交通整理のおばさんが代替わりしたらしく、交通整理のおじさんになってた。彼女はいまどうしてるんだろう。世界は回るんだなと思った。誰が死んでも(彼女が亡くなったのかは全然知らない)代わりがいるのは寂しい。その人はその人なのになと思った。各々好きに生きるのが大事だとはわかっているが、むずかしいと思う。居場所だと思える場所をつくることは心の支えになるから。 〜〜〜 お悩み相談を募集しているひと、できるひとは強くてやさしいと思っている。わたしは
言葉って暴力的だよなと思う。言葉は時に鋭利になる。わたしは写真を撮るのが好きなのだが、写真も暴力的だよなと思う。写したくないものまで鮮明に写ってしまうことがある。 さて、わたしが好きなものたちが暴力に満ちているのか、この世が暴力的なのかどっちなのか。 もちろん、それらは、いかなる時も暴力ってわけではないと思う。というか、暴力的なものたちを暴力じゃなくすためにわたしたちは頭を使って考えるのであって、人と話し合うのであって、お互いを気遣うのだと思う。自分でも何を言っているのか半
みなさま元気ですか
こんにちは、awaiです。 お久しぶりです。春が近づいている気配がしますね。 ずっと喉元で「あのさ」と「なんかさ」と「そういえばさ」が引っかかっている感覚があります。なにか言いたい!でもなにを言いたいのか自分でも全然わからない!とにかく話したいの!みたいな状況です。なんですかねこれ。春だからですかね。適当に言っています。えへ。 性格を曲げて楽しているわたしより少し背伸びしてでもまっすぐあろうとしているわたしの方が好きです。でも、年齢を重ねてみえる世界が広くなってきてから、
CDやサブスクのおかげでわたしのロックスターがいつでもどこでもわたしのために歌ってくれる
今日、懐かしい人とすれ違った。懐かしい人を見るたび、恥ずかしいと思ってしまう。みんなは大学卒業を控えているのにわたしはほぼニートのような状態で恥ずかしい。みんなはどんどん可愛くなってたりかっこよくなってたりするのにわたしは過食で太ってしまっていて恥ずかしい。彼女は昔と変わらず話しかけてくれたが、その場から逃げ出したくて仕方なかった。 恥ずかしいと思うまでになってしまった自分にがっかりする。自分に胸を張れない。張れるわけがない。昔は楽しかった、なんて1番言いたくない言葉を言い
タイトルは純粋な疑問。 ちなみに絵画展についてもそんなイメージがある。 めちゃめちゃたくさんの写真展や絵画展に行ったことはないのだが、なんというか神聖な雰囲気が流れている場所が多いイメージがある。よく言えば浄化される気分になる展示もあるが、ただただ雰囲気だけに圧倒されて疲れてしまう時もある。それも込みで表現したいことだったり、伝えたいことだったりしたら、そうなんだ!!すげえ!!!となるのだが、展示会に行くたびに毎回疲れていたら、足が遠のきがちになっているのも現状だ。でも、作
幼い頃から本が好きで、図書館でたくさん文章を読みながら育った。インターネットをみるようになり、知らない言葉を知る機会が増えた。 その結果、自由に使える言葉が少しだけ多い人間になったと思う。ここまではよかったのだが、感情の言語化がだんだんとできるようになった。少しずつ感情への解像度が上がり、少しずつ感情に名前がつき、それに少しずつ苦しむようにもなった。これは、感情を知ることが楽しくなってやってしまったことでもあるし、名前を知ることで助けられることもあったので、後悔はしていない
文章を書こうと、写真を撮ろうと、絵を描こうと、仕事をしようと、なにをしても人間はそれをみて「その人の人柄がでるねぇ」と言う。 とにかく人柄をみられる世の中なんだなと思う。 最近、過去に自分が書いた文章を見返していた。 一通り読んだ結果、わたしの文章って本当につまんないなと思った。なんというか人の目ばかり気にしている文章な気がする。 まあそれは幼い頃から生きている時間の毎秒毎分そうなのだが、それが文章にも表れていて本当に嫌だ。 わたしの書く文章は、やさしくみせかけようとして
愛したいと思う。人を、ものを、事象を。 愛というものはなかなか難しいものだと思っている。 愛は、一途で素敵なものだと言われるが、一歩間違えたら暴力的で独りよがりなものになりかねない。 例えば、わたしは友人たちのことが大好きで仕方がない人間なのだが、会っている時も、会っていない時もずっとずっと「君のこと大好き!愛してる!」なんて伝えすぎていたら、相手にとってわたしは怖い人間になってしまう可能性がある。怖がらせてしまうのは本意ではないし、この種類の愛は暴力というくくりに入るの
しずかなインターネットはじめました。 note未満の書き散らしです。ぜひ。 https://sizu.me/awaiamenoh1