働き方変え「世間」と向き合う

 会社員としての働き方を変えることにした。勤務時間を短くし、休日を増やす。分泌に費やす時間を確保し、自分の生き方を考えるためである。

 数年前から小説を書き始め、応募した文学賞で佳作を受賞し、だからと言っていい小説が次々書けるはずがない。今書いている作品が日の目を見るか、むしろ完成するのか、そもそも何を書いているのかさえよく分からないのだ。

 新しい作家は続々と生まれ、私などすぐに紛れてしまう。文筆でなんて絶対食えない。その年でまだ夢みたいなこと言って。私の中の「世間」が自分を冷たい目で見る。それでもやってみることにしたのは、己の道を探して進む人たちをずっと羨んできたからだ。

 …と言いながら無計画な私である。数週間前、何度目かの「自分の道を生きたい」欲望が限界まで膨らみ、発作的に次月からの時短勤務を会社へ申し出た。帰宅してその旨を伝えると母は言った。

「保険は?年金は?」

 考えていない。浮かれた気分は不安に変わる。自分の甘さを殴りたくなる。結局、保険や年金に加入できるよう勤務時間を調整し、不安は解消されたが、こんな試行錯誤は今後も続くのだろう。

 仕事を減らすと収入は減る。納める税金も比例して減る。子どもを産むつもりはなく、となると「世間」への貢献度は低い。居心地悪く感じる気持ちを、それでもやっぱり私は精一杯踏みつけたい。

「世間」の価値観を、私は無意識のうちに自分の中に取り込んでいる。それは「固定観念」や「常識」とも呼ばれる。その内側にいる限り、帰属感という安心が手に入る。一方で「世間」は時折、その外側にいる人たちを蔑み、傷つける。理解不能な他者を受け入れられないのだ。

 文章を書くようになってから、私は自分の中の「世間」を見つめざるを得なくなった。言葉は私を他者に出会わせ、行くはずのなかった街へ誘う。そこに広がる新しい世界で私は、無知でプライドが高く、弱者を見下し、強者に媚びる自分を発見する。自己嫌悪と羞恥に襲われる。

 それでも私は自分の生を引き受ける。愚かな自分を引き受け、時に踏みつけて初めて、次に書くべき言葉が見つかると思うから。

(2018年8月19日 徳島新聞朝刊掲載)


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