見出し画像

わからないに向かって

例えば面倒くさい確定申告や、契約の書類なんかを済ませた後は気が大きくなる。何かこう、社会というやつに受け入れられたのだ、という安心感がそうさせるのか、もしくはめんどくさいことが終わって安堵しているだけか。この気が大きくなるというのが良くない。少なくとも、自分には。

わかったような気になってしまうのだ。人が作った仕組みに順応できたというだけで、何もわかってなどいないのに。わかった気になっている時は、危険だ。自分に関係ない人の事や世事を、分析、判断などして評論家めいた断言をしてしまったりする。この感じが肥大していくと、なんだかとても良くない。そういう気持ちよさの中に埋もれてしまい、目に映る事を自分勝手に歪めてしまいかねない。なので、時々「わからない」ということを実感することが必要である気がする。少なくとも、自分には。

絵を描いていて一番楽しいのは、わからないということを実感する瞬間だ。少しややこしい話だが、それはわかったという瞬間でもある。ちゃんと実感のこもった「わかる」というのは、その後ろにある広大な「わからない」を感じるということでもある。わかればわかるほど、わからないはひろがっている。それは途方もないけれど、いっそ清々しい。ありふれた言い方をすれば、自分はなんてちっぽけなんだ、というやつだ。そしてちっぽけであることがとても楽しいし嬉しい感じがする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?