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服好き。

出かけることが少なくなって、毎日部屋着かパジャマで生活をしている。近所を散歩するときや買い物に行くときも、スウェットにゴムウエストの楽ちんパンツの部屋着のまま。靴もスリッポンの出番が増えた。今年の春にたくさん着ようと思って買った服たちも、タンス及びクローゼットの中で眠ったままだ。

自分にとって良い服を着ることは、対外的なものだったのだなあとしみじみ思う。好きな服があるならば、別に誰に会わずとも部屋の中で着れば良いはずなのだが、なんとなく毛玉だらけのスウェットや、袖が擦り切れたシャツを毎日着て過ごしている。

なんでそうなるのかと言うと、高かった服をくたびれさせたくないというケチな気持ちがあるからである。きれいなシルエットのシャツの首が伸びちゃったり、型が崩れるのは嫌なのだ。そのくせ、お手頃値段で購入した部屋着のくたびれた様には愛着が湧いている。スウェットのリブが擦り切れているのなんて、ダメージ加工のようで悪くないと思うし、伸びてダランと柔らかくなっているのも、肌馴染みが良いので気に入っている。何にも気にせずゴロンとできるのも良い。

本来であれば、高い服ほど丈夫だし(必ずしもそうとは限らないが)、身体への馴染みも良いのだから、ガンガン着て洗ってをすればいいとはわかってはいるのだ。着こなすというのは、そうやって自分の日常に服を落とし込むことなんだと思う。知り合いのパートナーはギャルソンを着たまま寝たり、道に寝転んだりするらしい。多少極端ではあると思うが、そういうのに憧れつつもできないなあ。器の違いなのだと思う。

野球のチームに例えて、よそいきを1軍の服、普段着を2軍、部屋着を3軍というような分類を世間一般ではする向きもあるが、いざという時にしか着ないおしゃれな服というのは、はたして1軍なのだろうか?普段ガシガシと試合(日常生活)で使われている服こそ1軍なのではないか。だとすると、うちのチームはドラフト上位の服(お気に入りの質の良い服)をファームもしくはベンチに塩漬けにして、町内会の草野球選手的な服(お手頃価格の服)をスタメンに起用している状態か。町内の野球大会のベンチにプロの選手がいるのに、なぜか使わない状態という感じだろうか。

考えれば考えるほど、トホホとなる。だが、言い訳をさせてもらえば、物持ちはめちゃくちゃ良い。好きな服を着て出かけた後は、帰ったらすぐに手洗いしている。おかげで10年前の服も比較的綺麗なままだ。古くならないデザインの服を好むので、10年経っていても古びた感じもしない。丁寧に扱っているので愛着だって湧く。でもそれは単に過保護なだけかもしれない。自己愛の延長という気もする。くたくたになった部屋着の汚れに対する愛着の方が、なんとなく好ましいものだと考えれば考えるほど思う。

やはりたくさん着る、というのが服に対する愛情として正しいのだろうなあ。これからは少し心を入れ替えて、質の良い服をたくさん着ようかな。とりあえず自分は服が好きだが、服を着ることに対しての器はとても小さい。

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