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アスペルガー冬、26歳の卒業

あけましておめでとうございます。

完全に2024年だと思っていたのにまだ2023年だった。人生は長い。

去年の10月に私は26歳になり「若いね」から「若く見えるね」と言われる歳になりました。実際若く見えるのかは分からないが、本当にそうだとしたら、いよいよ甘やかされてのうのうと生きている情けなさが顔つきに出てきてしまっているのではと不安になる。

2022年は特に何も起きなかったような、まあ何か起きたのだろうけど、過ぎてしまえば大体のことは忘れてしまう。外見も特に変わりなく、髪も伸ばしたままだし、タトゥーなんかも彫っていない。

大学生のとき癇癪を起こして作った根性焼きは相変わらず綺麗な丸い形で腕に残っている。これを飲みの席で見せながら「酔うとここが赤く光るんだよ!」と言うと、ややウケる。

26歳の誕生日。25歳まで抱えていた、形のない漠然とした焦りのようなものが、ふとどこかに消えてしまったような感じがした。それは電車のドアが閉まっていくのを見て走るのをやめたような、まもなく赤になる信号機の点灯を遠目に眺めているような、そんな感覚に似ていた。

決して絶望とは違うけど、今まで拒んでいた、たかが知れたこれから死ぬまでの日々を静かに受け入れるスペースが心の中に突然現れて、今まで冗談で言っていた「来世に期待」が、れっきとした選択肢として思考の中に入ってきてしまったのだ。

もはや

「あっ。お砂糖買い忘れちゃった…。来世で買ってこよ〜」

みたいな

「ホイコーロー定食来世大盛りで。味噌汁は中華スープに変えてください。」

みたいな

「来世切れちゃったわ〜。お前の来スピってメンソール?一本ちょうだい〜。」

そのレベルの気楽さに「来世」がきてしまっている。

これが若さを失うと言うこと。可能性を失うということ…。

テレビで活躍しているアイドルも、大人気の歌い手も、藤井風もみんな歳下。もう間に合わない。何者かになるにはもう遅いのだ…。




気がつくと私は、怪しい病院で脳波の検査を受けていた。

何があったのだろう、頭にアホみたいに吸盤をくっつけられて壁を見つめている。

人は自分が何者かわからないとき、肩書きや属性を持ちたがる。Twitterでよく見かける、スラッシュが並んだプロフィールがその最たるもので、一部の界隈ではこれは見えないタトゥーのようなファッションになりつつある。かくいう26歳まで何者にもなれなかった私も、ここにそれを探しにきたのかもしれない。

だけどおおかた見当はついている。どうせ父親由来のADHDだろう。多動性がないあたり不注意優勢型ですねとか言うんだろ。問診も当てはまるように答えてやったぞ。私の感性は人一倍敏感だ。かかってこい。



「脳波の状態だけで申し上げますと、中等度のASDの傾向がありますね。自閉スペクトラム症です。」

絶句した。

ASDってあれ?人の心がわからないみたいなやつ?アスペルガーってこと?いやいや、私人の心めっちゃわかるんだが?確かにアスペルガーみたいな人ばっかと付き合ってたけどあたしゃそうじゃないよ。冗談じゃない。私通して元彼の脳波見ちゃったのかなこの人。

ショックだった。一般的な診断方法でないとはいえ、自分が待っていた答えとは全く真逆と言える結果を突きつけられて、私はいつも通り静かにパニクった。

診断結果の封筒を抱きしめたまま、駅までの帰り道もわからなくなって、東京駅の端を行ったり来たりした。

私が感じ取っていると思っていた共感は、経験してきた膨大なデータをベースにしたパターンにすぎない。というようなことをオブラートに包んでやんわりと言い聞かされていたとき、私は「二足歩行ロボットのアシモは両足で立ち上がるためだけに毎秒途方もない計算をしてバランスを保っている」という小さい頃にテレビで聞いた話を思い出していた。なんでこんなときにあんな瑣末な記憶が蘇ってきたんだろう。あのとき私はアシモの計算機に共鳴したんだろうか。

私はアシモだったのか。

帰宅した私はさっそく方々に連絡した。次々に送られてくる「知ってた」という返信。知ってたんだ。みんな友達でいてくれてありがとう。私は少ない友人たちに感謝した。

ASDだと言われた私と、昨日までの私。変わったことは何一つない。それなのに、それから起きるたびに、人と話すたびに私の中のアシモがぴょこぴょこと走る。「無意識に人の表情などを機敏に読み取って、適した行動をとっているんでしょう。だから人より脳を酷使してしまうんですね。」

医師は私が眠り過ぎてしまったり、些細なミスを連発する理由をこう説明した。

みんなそうやって生きているんじゃないのか。

じゃあ、その計算機のスイッチを切ったら、私はどうなるんだろう。

嫌いなものも人もほとんどいない。それって本当なんだろうか?

期待とイメージに応えようとして、好きだと言い張っているものはない?

本当は笑うのも怒るのもめんどくさい時は?

一つ一つ確かめてみよう。

もう大人だから、スイッチを切るのは難しい。でもどれが本心で、どれが処世術か、自覚できるようにならなくちゃ、きっとこの先もっと疲れてしまう。

私はつい最近まで、長年続けていた楽器の先生になるつもりだった。楽器を弾いている時間は楽しかったし好きだ。これはたぶん本心。

でも、仕事にするほど夢中だろうか?何時間も没頭するほど?なんとなくそれを続けることが立派で、家族や先生の期待に応えようとしてるだけなんじゃないか。そもそも人に教えるなんてできないよな、私、よく考えたら人に興味ないもん。何人もの人に対して責任なんか持てない。ていうか嫌。

何年もぼんやりと悩んできたことの答えは思っていたよりずっと簡単なものだった。毎日何時間も練習して1日が終わるよりも、私は本を読んだり、気まぐれに絵を描いてみあり、こうやって文章を書いて、そのひとかけらの中に楽器がある生活がしたい。とても立派とは言えない、食い逃げ犯みたいな生き方。そんな私を、私自身に許してほしい。

こうやって、無理してやってきたこと、惰性で続けていたこと、潮時なこと、たくさんのことに線を引いていった。

学生までは時がくれば強制的に舞台は転換されていったのに、大人になったら自分の意思で卒業を決めていかなくちゃ、そうしないと手一杯になって息ができなくなってしまうんだね。悲しませたくなくて、悲しみたくなくて、全部やり続けようとしてたなんて、どうして気がつかなかったんだろう。アシモじゃないからそんなのできないよ。馬鹿だなあ。

先週、久しぶりに楽器の練習会に参加した。

私の演奏をきいて、先生は「練習してないでしょ。」と笑う。

「はい、全然してません。まったく。」と答えて私も笑う。

計算機は少しだけ動きを止めて、来世について考える。


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