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【修学旅行にぴったり!】淡路島の歴史と歴史的観光名所

(この記事には一部プロモーションが含まれます。)

淡路島は花の名所として知られ、温暖な気候と豊富なレジャー施設から観光地として非常に有名です。しかし、淡路島は観光地としてだけでなく、歴史的観点からも非常に重要な役割をもった島だということはご存知でしょうか?修学旅行では、訪れた場所の歴史や文化を知ることで、その場所について、より深い学びを得ることができます。この記事では、淡路島に訪れる際には是非知っておきたい、淡路島の歴史や文化を解説します。淡路島への旅行をお考え中の方は是非ご覧ください!

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淡路島とは

淡路島は、兵庫県の南東に位置し、瀬戸内海で一番大きな島です。美しい自然景観や歴史的な名所が点在し、観光地としても知られています。淡路島は「花の島」とも呼ばれ、美しい花々を鑑賞できる観光スポットが点在しています。また、淡路玉ねぎや淡路牛などの特産品も有名です。淡路島は瀬戸内海気候で年間を通して温暖で雨も少ないため、一年中観光しやすいのも特徴です。

淡路島の歴史

続いて、淡路島に伝わる伝承や、重要な歴史的史実を解説していきます!

神話時代〜国生み神話〜

出典:淡路島 くにうみ協会

淡路島には、古来から様々な神話や伝説が伝わっていますが、その中でも有名なのが「国生み神話」です。

淡路島は、日本最古の書物である「古事記」と「日本書紀」によれば、日本で最初に誕生した島とされています。神話の冒頭に登場する「国生み」の巻に記載されており、遠い遠い神代に世界が無かった頃の昔の話となります。

天の高天原にいる神々が、伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)の男女の二神に漂っている大地を完成させて国造りを命じました。この二神は、天浮橋(アメノウキハシ)に立って、天の神々から授かった「天の沼矛(アメノヌボコ)」で、世界を凝り固めるために漂っている大地をかき回しました。その沼矛の先から滴り落ちた雫が自ずから凝り固まって島となり、自凝島(オノコロ島)と呼ばれました。この島で二神は夫婦の契りを結び、国生みの儀式を行いました。

淡路島は「大八州(オオヤシマ)」と呼ばれ、国土を形成して日本が誕生したとされています。大八州の誕生した順番は、淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州となります。淡路島は最初に誕生した島として古事記では「淡道之穂之狭別島」、日本書紀では「淡路洲」と表記されています。

淡路島は、日本の国生み神話で日本発祥の国の地である「自凝島(オノゴロジマ)」の伝承地が数多くあり、訪れる人々を悠久の彼方へと誘うパワースポットとして有名です!

弥生時代〜青銅器、鉄器の生産〜

出典:淡路島日本遺産

弥生時代は、日本の古代国家が形成される重要な時代でした。

淡路島の西部の沿岸部では、弥生時代の遺跡が多数発見されています。青銅器として21個の銅鐸と14本の銅剣が発見され、中でも最大のものは南あわじ市で発見された松帆銅鐸です。淡路島で、弥生時代に青銅器文化が栄えていた痕跡をうかがわせます。

また、淡路島の北部の山間部でも、弥生時代の遺跡が発見されています。五斗長垣内遺跡は、100年以上鉄器の生産をしていた集落として知られています。

平安時代〜御食国としての発展〜

出典:淡路島くにうみ協会

平安時代には、淡路島は朝廷にとって重要な食糧供給地でした。史書『延喜式』によれば、淡路は「雑魚」を贄として納める御食国「みけつくに」と呼ばれ、海産物を中心とした食糧を都へ運ぶ役割を果たしていました。

また、この時期、淡路島は天皇家との結びつきが強く、大和朝廷の時代には大陸文化が九州から近畿に伝来する中継点として機能していました。古事記や日本書紀によれば、仲哀天皇の時代に淡路島に天皇の直轄地として「屯倉」が置かれたとされています。この屯倉は、淡路島を統治する要所でした。

戦国時代〜細川氏の滅亡と国人衆の台頭〜

出典:Yahooトラベル

戦国時代の淡路島は、永正16年(1519年)に守護細川氏が阿波の三好氏に滅ぼされたことで、守護不在の状態となりました。その後、在地の武将である国人衆が台頭し、島内を支配するようになりました。これにより、淡路は戦国大名たちの争奪戦の舞台となりました。

主な国人衆として、淡路水軍を率いて海上権を掌握した安宅氏、阿波から勢力を伸ばした三好氏、播磨から勢力を伸ばし、岩屋城を拠点とした赤松氏などが挙げられます。

永禄年間(1558年~1570年)には、三好氏と安宅氏の間で激しい戦いが繰り広げられました。天正年間(1573年~1592年)には、織田信長や豊臣秀吉による四国攻めを受け、淡路島も戦場となりました。島内各地には、安宅氏、三好氏、赤松氏、細川氏などの城跡が残されています。

現在、観光スポットとして人気の洲本城は、戦国時代に仙石秀久によって築かれました。この城は本格的な石垣を持ち、重要な拠点として機能していました。洲本城は、四国攻め(四国征伐)の水軍の拠点としても利用されました。

江戸時代〜横須賀家の統治と発展〜

出典:歴史逍遥『しばやんの日々』

国人衆による戦乱の時代が終わると、淡路島は大坂の陣で戦功をあげた徳島藩主の蜂須賀家に拝領され、統治されます。蜂須賀家の統治下で、淡路島は大きな発展を遂げました。淡路島は瀬戸内海、大阪湾、紀伊水道という水上交通の要衝となり、多くの商人が行き交うようになりました。経済的な発展とともに、芸術や文化も成熟し、現代でも有名な淡路人形浄瑠璃もこの時代に生まれました。

明治〜庚午事変と廃藩置県~

出典: 公益財団法人 とくしま“あい”ランド推進協議会

庚午事変は徳島藩主の蜂須賀家と筆頭家老の稲田家の対立がきっかけとなって起きた事件です。稲田家は元々、蜂須賀家の客分であり、対等な立場でしたが時が経つにつれて、客分から家臣となった特殊な経緯がありました。稲田家は家臣になったものの、洲本城代(知行1万4千5百石)を永年務めていた関係から、蜂須賀家内で半独立的な立場になっていました。このような、不完全な主従関係がのちの庚午事変の原因となりました。

庚午事変が起きたのは尊王攘夷運動が活発となった幕末期です。幕末期、蜂須賀家の当主は徳川将軍家からの養子であり、佐幕派として行動していました。しかし、淡路洲本城代であった稲田家は主家である蜂須賀家の意向とは異なり、尊王派として藩内で対立していました。このような対立関係が深まっていった結果、明治3年(1870年)に庚午事変が起こり、過激派の徳島藩士が洲本城下の稲田家とその家臣の屋敷を襲撃しました。この事件がきっかけとなり、その後に行われた廃藩置県では、淡路島は徳島県ではなく兵庫県に編入されました。これが、淡路島が現在徳島県ではなく兵庫県の一部となっている原因でもあります。

昭和時代〜紡績産業の発達〜

出典:淡路島情報館

明治時代から昭和時代にかけて、淡路島は洲本市を中心に発展しました。洲本市には日本有数の紡績工場が建てられ、産業の発展に寄与しました。
1985年には洲本市物部と四国(鳴門市)を結ぶ大鳴門橋が開通しました。淡路島と四国が結ばれたことで、淡路島のアクセスが飛躍的に向上しました。また、同年に開園した淡路ワールドパークや洲本温泉などが人気を集め、観光地として知られるようになりました。

現代〜阪神・淡路大震災と復興〜

出典:日本情報多言語発信サイトnippon.com(ニッポンドットコム)

1995年1月17日、淡路島は大きな地震に見舞われました。阪神・淡路大震災として知られるこの災害は、多くの人命を奪い、甚大な被害をもたらしました。震源地は、淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡で、震度7を記録した地域は、淡路島の北部と神戸市須磨区から西宮市・宝塚市にかけて東西に帯状に分布していました。犠牲者は6434人、被害総額は約10兆円規模に達し、日本の内陸で発生した地震としては、東日本大震災に次ぐ被害規模となりました。甚大な被害をもたらした阪神・淡路大震災でしたが、その後の地元住民の復興努力と他県からの支援により、淡路島は再び立ち上がり、今日の姿を築き上げました。

淡路島の文化

淡路島ではその発展とともに、様々な文化が生まれ、現代まで伝えられてきました。この章では、淡路島に伝わる数多くの文化の中でも特に有名な淡路人形浄瑠璃とだんじり祭りをご紹介します!

淡路人形浄瑠璃

出典:淡路人形浄瑠璃 | 淡路島日本遺産

淡路人形浄瑠璃は、淡路島を代表する伝統的な人形芝居です。この芸能は、三人遣いの人形、義太夫(人形浄瑠璃の語り手)、太棹三味線(伴奏楽器)を組み合わせて演じられます。淡路人形浄瑠璃は、国指定重要無形民俗文化財に指定されており、その歴史と伝統は古く、地域の文化として大切にされています。

淡路人形浄瑠璃は、室町時代にえびす信仰を広めていた摂津西宮の百太夫が淡路島に移り住み、地域の人々に人形の操り技を伝授したことが発祥と言われています。全盛期には淡路島内に大小40以上の人形座があり、全国各地を巡業して浄瑠璃文化を広めました。淡路人形浄瑠璃の演目は、歴史物語や神話、恋愛物語など多岐にわたります。

人形遣いは、美しい人形を操りながら義太夫の語りで物語を進め、太棹三味線の音楽が劇の雰囲気を盛り上げます。淡路人形浄瑠璃は、その独特のリズムと美しい人形の動き、感情豊かな語りで観客を魅了します。
淡路島を訪れる際には、ぜひ淡路人形浄瑠璃を観賞して、その伝統芸能の美しさと歴史を感じてみてください!

淡路だんじり祭り

出典:淡路暮らし総合相談窓口

淡路島の代表的な祭りとして知られるのが「淡路だんじり祭り」です。これは、30もの巨大なだんじり(山車)が町を練り歩く祭りで、華やかな装飾や迫力あるだんじり唄が見どころです!淡路島は、かつて朝廷に食物を供する「御食国(みけつくに)」として知られ、海や大地に感謝する神事としてだんじり祭りが行われてきました。だんじりは刺繍、彫刻、金綱などの美術品を持ち、その技術と伝統は地域の宝とされています。
淡路だんじり祭りは毎年4月29日に、三原健康広場で開催されます。この時期は海外からの観光客も多く訪れ大変混雑するため、この時期に淡路島に訪れようと考えている方はホテルなどの予約をなるべく早めに済ませるようにしましょう。

淡路島の歴史をたどるおすすめツアー例

淡路島の歴史と文化についての理解は深められましたでしょうか?この章では、淡路島の歴史的名所をたどるおすすめツアー例をご紹介します!

北淡路震災記念公園

出典:北淡路震災記念公園

北淡震災記念公園には、阪神淡路大震災の野島断層を保存展示する施設「野島断層保存館」があります。野島断層は、震源地の最も近い断層で、淡路市北部の江埼灯台から富島地区にかけて約10キロに伸びています。この断層は、阪神淡路大震災の震源地に最も近いものであり、約140メートルにわたり、むき出した断層や崩れた道路などを当時のまま展示しています。野島断層は、地震の教訓を伝えるために保存されており、地震の脅威を感じて防災の意識を高める場所となっています。淡路島の歴史と共に、阪神淡路大震災の遺構を通じて、地震の教訓を学ぶことができます。淡路島を訪れた際には是非一度足を運んでみてくださいね。

↓車で5分程度

クラフトサーカス(昼食)

出典:淡路島観光なび

朝から観光していると昼食どきになってきますね!昼食は北淡路震災記念公園にほど近いクラフトサーカスでとるのがおすすめです!クラフトサーカスは新鮮な魚介をその場で捌き、活け造りや握り寿司、海鮮BBQを提供する「淡路島海王市場」と、直径40㎝の名物「島ピザ」やビッグサイズの「クラフトバーガー」等を提供する「淡路島クラフトキッチン」の2つのレストランを持つ海沿いの人気リゾート施設です。団体向けのプランも用意されており、最大で120名の収容が可能であるため、修学旅行など、大人数での旅行の際にも安心して利用することができます!

↓車で40分程度

洲本城

出典:兵庫ツーリズム

洲本城はクラフトサーカスから車で40分ほどで行くことができます。洲本城は、淡路島北東部の洲本市中心部の南部にある三熊山の山頂に築かれた山城です。この城は西日本最大級の水軍の山城として知られています。洲本城(上の城)は、大永6年(1526)に淡路水軍を率いた安宅治興によって築かれました。 洲本城には壮大な総石垣、大石段、全国で数例しかない登り石垣があります。また、天守台には1928年に鉄筋コンクリートで建設された日本最古の模擬天守閣があります。洲本市街のみならず大阪湾を一望できる、まさに南海の要塞と呼ぶに相応しい堅城です!上下の城を繋ぐことで防御力を高めた「登り石垣」は全国で数例しかない珍しい遺構として評価され、続日本100名城に選定されました。
洲本城跡(上の城)は公園施設かつ史跡で、常時無料開放されています。駐車場は複数あり、徒歩でアクセスできる距離にあります!

↓車で30分程度

おのころ島神社

出典:淡路島観光ガイド

おのころ島神社は洲本城から車で30分程で行くことができます。
おのころ島神社は、淡路島に古くから伝わる神社で、国生み神話にゆかりのある場所として知られています。伊弉諾尊と伊弉冉尊が降り立ったと伝えられる丘に現在の本殿があります。神聖な雰囲気が漂うパワースポットであり、縁結び、安産、恋愛成就、夫婦円満などのご利益があります。高さ21.7メートルの大鳥居は、日本三大鳥居の一つに数えられ、南あわじ市を象徴するランドマークとなっています!24時間参拝可能で、大型バスが停められる無料駐車場もあります!

歴史をメインにしていないモデルコースもありますのでぜひ確認してみてください!


まとめ

最後までご覧いただきありがとうございます!今回は淡路島の歴史と文化についてご紹介しました!淡路島にはレジャー施設だけでなく、歴史的名所も数多くあります!淡路島の歴史を知ることで淡路島観光をより一層楽しむことができます!淡路島を訪れる際にはぜひ本記事を参考にしてみてください!

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