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いずれ心が晴れるまで。 映画『夜明け』に寄せて

 人は誰かを「助ける」ことはできても、果たして「救う」ことはできるのだろうか。誰かを助けようとして、自分の心中に、その人を助けることで満たされる自身のエゴを見ることはないだろうか。人を救うことで逆に救われるという共依存の関係は、一見豊かなものとして見えるが、両者を支えているその関係性の差異を読み違えると、現代を取り巻く人間関係の不毛なコミュニケーションの様相が浮かび上がってくるだろう。
この『夜明け』という映画は、人と人とが寄り添い助け合いながら生きていくなかで生じる、小さな嘘やささやかな矛盾が引き起こす歪んだ関係性を、奇をてらうことなく堂々と正面から描いてみせた映画だ。

STAFF
監督・脚本:広瀬奈々子
撮影:高野大樹
照明:山本浩資
録音:小宮元
美術:仲前智治
CAST
柳楽優弥(シンイチ/芦沢光)
小林薫(涌井哲郎)
YOUNG DAIS(庄司大介)
鈴木常吉(米山源太)
堀内敬子(成田宏美)
高木美嘉(成田あさ)
清水葉月(ミナミ)

 監督を務める広瀬奈々子は本作を作り始めた動機として、震災直後に世間の空気を覆った「絆」や「家族愛」という風潮を懐疑的に見つめながら、自立できない若者の不安定な一時期を描きたかったと答えている。本作の物語は、妻と息子を亡くした中年の男である哲郎(小林薫)が、川辺で衰弱して倒れていた謎の青年(柳楽優弥)を助け出して介抱するところから始まり、互いの過去を深くは探ろうとしないまま、擬似家族的な関係性を築いていく過程を見せていく。
シンイチと名乗るその青年は、哲郎が営む木工所で見習いとして働き始めるのだが、同僚である周囲の人間と積極的に馴染もうとはせず、何か後ろめたい過去を抱えているかのような側面を見せる。このシンイチを演じた柳楽優弥の演技が素晴らしく、近年の作品で言えば『ディストラクション・ベイビーズ』をはじめとした生々しく暴力的な役柄が印象的であったが、本作では一転して、終始おどおどとした表情を浮かべながら煮え切らない態度を見せる若者を見事に演じている。言いたいことをはっきりと言わないこのシンイチの態度には苛立つ観客もいるだろう。この青年は孤独を抱えながらも、その孤独を糧として一匹狼然として生きていこうとしている人間ではなく、どこかで人の優しさや温もりをもとめ、寄り添おうとする素振りを見せるからこそ、余計に上手くコミュニケーションがとれないじれったさが、観ているものに歯がゆさを感じさせながら伝わってくる。

 その逆に哲郎という人間は、序盤の展開こそ人優しい性格がにじみ出ていて、帰る居場所のないシンイチにとっての父親としての役割を演じてみせるが、物語が進むにつれ、同僚である宏美(堀内敬子)との再婚話や、シンイチに亡き息子の後ろ姿を重ねて見るようなった辺りから失ったものをもう一度取り返せるのではないかという錯覚を引き起こしていく。哲郎はシンイチが倒れていた川辺の近くで彼の身分証明書を拾い、徐々に青年が隠してきた背景へと触れていくのだが、哲郎はシンイチの真実を知ることを拒み、あくまでも青年をシンイチとして受け入れようとして、彼の本名である芦沢光と書かれていた身分証明書をついには燃やしてしまう。哲郎のその一方的な愛情が、やがてはシンイチにとって耐えがたい重圧へと変貌していく過程が見てわかるだろう。
 こうした血縁関係に依らない家族の形を模索する擬似家族ものの映画は昨今多く見られ、これから先の社会において考えなければならない、地方における世代間を超えたコミュニティの形成をめぐる問題にも多くの問いを投げかける作品とはなっているが、他の諸作との違いで言えば、擬似家族ものの体裁を帯びながらも、最後までシンイチや哲郎が家族として交わり切ることなく、微妙な関係性を築いた程度の感触を残したまま終わっていく点に特徴があると言える。例え映画であっても仮初めの幸福を描こうとはせず、あくまでも現実の問題はよりシビアであることを静かに訴えかけてくるのだ。

 この映画におけるカメラは、登場人物たちに対して寄りそうでもなければ、引き離すでもなく、彼らの内的な葛藤を記録するかの如く、対象との距離感を常に保ち続けている。広瀬奈々子は本作の撮影について「誰にどう見られているのか、誰をどう見ているのかを意識した映画にしたかったので、気味が悪いほどねっとりと視線を繋ぐようなカメラワークにこだわった」と答えている。広瀬奈々子はもともと是枝裕和のもとで監督助手としての経験を積んできた監督だ。その影響が色濃く見られるのは、是枝作品に特徴的な、人に寄り添いもすれば、時には残酷的な場面すらも切り取ってみせるその独特なカメラワークが本作にも強く残っている点を指摘できるだろう。決してスタイルを真似るのではなく、描く主題に対しての適切な撮影手法だ。

 映画の終盤において一度築き上げてきた関係性は破綻に終わり、青年は夜の街を走り回ったあげく、海岸へとたどり着く。これ以上逃げる場所はないことを悟り、再び引き返す場面などはフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』を彷彿とさせるが、この映画では引き返した後の場面を描いている。印象的なのは、撮影稿として使用されたシナリオによれば、最後の踏切の場面で列車が通過した後、踏切があがり青年はその場に立ち尽くしたまま来た道を振り返るところまでが書かれているが、実際の映画を見るに、来た道を振り返ることもなければそのまま前へ進むこともなく、ただ立ち尽くしたままの姿で映像が途切れている。最後に青年がどのような決断を下したのか、はっきりとした答えは明示されていない。観ている観客には多くの疑問を残すことだろう。なにも現実社会における問題を引き寄せて、答えを提示することばかりが社会派とされる映画の役割ではないのだ。擬似的であった家族関係が最後にはひとつの輪として深まっていくような安易な解決法を提示することなく、物語に大きな余韻を残していく。夜明けの場面からはじまったこの映画は、最後に再び夜明けの場面を映しながら、ひとつの問いを残して、その幕を静かに閉じていく。

 決して物語の語りを先行させず、しっかりと人間を描くことに主軸が置かれている本作は、一見するとドラマに起伏のない単調な物語として受け取られかねない。しかし、物語を展開させていくような仕掛けや伏線となるような分かりやすい出来事を描いていないのは意図的なものだろう。映画の物語は脚本の構造ではなく、描かれている人間から生まれてくるのだ。初めての長編映画で、現代を生きる等身大の若者を堂々と正面から描いてみせた広瀬奈々子監督の力量には、ただただ感服するばかりである。

主に新作映画についてのレビューを書いています。