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抗うものへの賛歌 映画『マルリナの明日』によせて

遥かな先には青く輝く海が広がり、誰もいない一本道をひとりの女性が馬にまたがりゆるりと進んで行く。しかし女はその背中に鉈を背負い、左手には男の生首をぶら下げている。

この画面の大半を静謐さが覆い尽くすイメージとは裏腹に、相反する暴力的で死の匂いが立ち込めるモティーフが混在しているビジュアルは、『マルリナの明日』という映画をあらわす象徴的なショットだと言えるだろう。

STAFF監督:モーリー・スリヤ製作:ラマ・アディ/ファウザン・ジドニ原案:ガリン・ヌグロホ脚本:モーリー・スリヤ

CASTマーシャ・ティモシーパネンドラ・ララサティエギ・フェドリーヨガ・プラタマ

劇伴として流れるマカロニ・ウェスタン調の音楽や、舞台であるインドネシアの秘島「スンバ島」の灼きつくような陽射しと荒れ果てた大地がテキサスを連想させることから、この映画は西部劇としての風格を見せはするが、ジャンル映画特有の軽さをもたせながらも、描かれている本質はマイノリティとして生きる女性たちの姿、その葛藤である。

物語は4幕構成で語られ、冒頭はマルリナ(マーシャ・ティモシー)の家を映し出すショットからはじまる。庭には墓石が建てられ、陽射しがうっすらと入り込むだけの暗い居間には夫のミイラが置かれている。どうやら彼女は夫に死なれ、息子に先立たれた未亡人であるらしい。

やがて初老の男・マルクスがあらわれる。彼はマルリナに、あと30分で自分の仲間が集まってくることを告げ、家にある金と家畜を全てさらい、時間があれば仲間全員でお前を犯すと脅しつける。この男は強盗団の首領である。マルリナは冷静さを保とうとするが、それでもその表情からは動揺が隠せない。やがて次々と男たちが乱入し、彼女の体を舐め回すように見つめ、家の家畜をトラックへと運び込んでいく。
マルリナは命令されるがまま、男たちに食事の用意をするが、鶏のスープに毒の実を混ぜ合わせ、それを振る舞う。口にした男たちはひとり、またひとりと静かに倒れていく。マルクスにも食事を勧めようと彼がいる寝室に入るが、逆に襲われ犯されてしまう。しかしマルリナは一瞬の隙をみて脇にあった鉈を振りかざし、男の首を切り落とす。寝室の隅に生気を失った男の生首が転がり落ちて血が流れる。

ここまでが映画の第1幕であり、マルリナはその後、男の生首を携えて自分の正当防衛を訴えるため、警察署を目指す。友人であり子どもを身ごもっているノヴィ(デア・パネンドラ)に怪しまれたり、バスの運転手に乗車を拒まれたり、その逆に運転手を脅しつけて無理やり乗せる場面などは、いくらかコミカルな演出がなされて、このシリアスな映画に明るい印象を与えている。

その道中、彼女の背後には常に首の無い男の亡霊がつきまとう。その存在に観客はすぐさま先のマルクスという殺された男の姿を思い出すだろう。しかしモーリー・スリヤ自身の言葉によれば、あれは幽霊ではなく、マルリナが下したある決断についての代償や責任のようなものが、いつまでも消えることなくまとわりつくというイメージを視覚化したものだという。このマジック・リアリズムのごとき生と死を彷彿とさせる流れが渾然一体となって、スンバという地の土着的な匂いや精神性と、男性優位社会におけるフェミニズムの葛藤が映画に刻まれている。

マイノリティとして生きる女性の葛藤とは、このマルリナひとりに担わされたものではなく、彼女の友人であるノヴィにもその側面が描かれている。強盗団の生き残りに追われるも、無事に夫と再会したノヴィに対して、夫はすぐさま彼女の浮気を疑い、いつまでも子どもが生まれないのはお前に原因があるのだと突き放す。そこに一味の残党であるフランツ(ヨガ・プラタマ)が戻り、彼女を誘拐してマルリナに電話をかけさせ、マルクスの首を持って家に戻ってくるよう脅しつける。
一方のマルリナはたどり着いた警察署で事件の顛末を語るものの、取調官から本当に襲われたのかと逆に疑われ、検査器具が届くのは来月だと突き返されてしまう。日本でも起こり得そうなセカンドレイプだ。取り調べの間、彼女の背後で卓球をしている警察官の怠慢さが挟み込まれるあたりの皮肉も効いている。

脅迫の連絡を受けたマルリナは、もはや放心の体で家に戻るも、あっけなくフランツにマルクスの首をとられてしまう。彼は妊婦であるノヴィに飯をつくれと命じ、マルリナを寝室へと連れ込む。この場面は冒頭の反復だ。冒頭のマルリナが男たちのために飯をつくる場面と同じような構図でノヴィのアップを映し出していく。やがて寝室からマルリナの悲鳴が聞こえると、ノヴィは意を決して鉈を手に寝室へと踏み込み、目の前でマルリナを犯しているフランツの首を切り落とす。男の首が床に転がる。さらに冒頭の反復である。
安堵とともにノヴィの陣痛がはじまりると、マルリナは彼女の出産を手伝い無事子どもが産声をあげて産まれてくる。ラストは男が乗ってきたバイクに2人でまたがり、子どもを連れて去っていく場面で映画は終わる。
この一見シンプルだが、その分テーマ生をはっきりと浮かび上がらせる脚本の構造は、近年では『リベンジ』(2018/監督:コラリー・ファルジャ)の復讐譚(本作と同じく複数の男たちに陵辱された美女が復讐する話。この映画もまた砂漠の別荘地から始まり、そこから抜け出した末にまた別荘地へと戻ってくる)で描かれていた「行って帰って来る」だけの直線的な物語構造を想起させ、また『マッドマックス 怒りのデスロード』(2015/監督:ジョージ・ミラー)における徹底的に削ぎ落としたシンプルなプロット作りを同じく連想させもするだろう。

ただ前述のように上記に挙げた諸作と比べ、本作は暴力的な描写は抑えられ、女性が粘り強く生きていこうとする姿勢や、その内面の孤独へとカメラが向けられているのは、監督であるモーリー・スリヤの作家性によるものだろう。
西部劇と聞いて真っ先に思い浮かんだのが『デッドマン』(1995/監督:ジム・ジャームッシュ)だというこの監督のフィルモグラフィーは、長編第1作目の『フィクション』(2008)続く2作目の『愛を語るときに、語らないこと』(2013)など、その主題として同性愛のカップルや売春婦の暮らし、障がいを抱える少年少女の恋愛関係など、インドネシア社会のマイノリティたちが抱える葛藤を物語の軸に描いている。また是枝裕和の『誰も知らない』からの影響を公言していたりと、本人の資質としては人間の心の底を細密画のごとく描いていくタイプのドラマに基軸を置く作家なのだろう。

近年のインドネシアでは、民主化運動が勃興していた時代に比べ、イスラム勢力の台頭が強く、宗教や性的なテーマを扱った映画に対しての検閲や規制は厳しくなっているという。そうしたなかでも社会的にタブーとされているような問題に意識的に向き合う映画作家もまた台頭している。インドネシアではじめてLGBTをテーマとして描いたニア・ディナタや、宗教と官能と犯罪をモティーフに独自の視点から国内の事象を見つめるテディ・スリアアトマジャがいある。モーリー・スリヤもまた同様に伝統的な価値観や、それを盾に圧力を振るうものたちに、ささやかな抵抗をする人々を静かに見つめるような映画を作り出す。彼女の映画は国の内外を問わず、生きることに苦しみ苦悩する人々への人間賛歌である。

主に新作映画についてのレビューを書いています。