見出し画像

熱海での祝祭。映画『小さな声で囁いて』に寄せて

言葉にならないような感情を、心の内からそっと引き出し、はじめからそれを思い出したかったのだと、そう膝を打つような作品が良い映画の条件だと勝手ながらに思っている。名も知れぬ感情を発見する喜びだ。

それはメロドラマでもサスペンスでも起こり得る。
若き映画作家である山本英は、それを観光というモチーフのなかで見事に描き出した。
山本英は東京藝術大学大学院の映像研究科映画専攻にて、黒沢清や諏訪敦彦など作家性が非常に強く国際的な評価も高い監督たちの元で映画の表現技術を学び、本作を大学院の修了作品として作り上げた。近年の東京藝大から作り出されていく映画は、学生の手によるものながらも非常に特異な表現方法のもとに作られるものが多く、修了作品でありながら各国の国際映画祭への出品も続いている。山本英が助監督としてついた清原惟の『わたしたちの家』はベルリン国際映画祭への出品を果たし、『泳ぎすぎた夜』などで知られる五十嵐耕平もまた同大学院の修了作品として『息を殺して』を作り上げロカルノ国際映画祭にて上映された。

本作の話へと戻ろう。この映画の舞台は熱海である。
観光に訪れた沙良(大場みなみ)と遼(飯田芳)は、結婚を間近に控えたカップルのようだが、どこか心ここに在らずといった有様で、ヴァカンスを楽しんでいる様子はない。恋人たちが交わす言葉は他愛もない会話ばかり。男の方は将来のことや仕事のこと、生活のことについての問題をひとりで抱え無為に時間を過ごしていく。日常の生活から解放された恋人たちのあいだには、せっかくの観光だというのに現実的ないざこざがいつまでもつきまとう。
もとはベトナム戦争時の米兵の駐屯地として整備され、その後は観光地として名を馳せた熱海も、今やさびれてしまい日常を忘れさせるほどの光景は見当たらず、その力も感じられない。誰もいない観光地を彷徨う二人の姿は、まるで亡霊のようにひっそりとしている。

たそがれる二人の前を通り過ぎるかのように、やがてもう一組のカップルが姿を見せる。カメラは恋人のように映していた二人の関係を切り離し、いつしか沙良と遼は互いに別れて一人になり、沙良は別の相手を見つけて二人になる。恋人たちの微妙な関係性を揺れ動かす独特なカメラワークにも目がいく。

夜のレストランでの夕食の際には、沙良が遼に対して夢の話を聞かせる場面がある。それは夢のなかでさらに夢が続いていくような荒唐無稽な笑い話だ。奇妙なのは、二人が向かい合って話しているにも関わらず、カメラが映し出すのは終始、沙良の表情だけなのだ。彼女の背後にある窓ガラスには、向かいの席に座る遼の顔が反射してぼんやりと見えている。そして遼が話し始めると、カメラが切り替えして彼の顔を映すのではなく、その窓ガラスに映る小さな彼の表情にピントを合わせるのだ。ここでは視線が交差しない。まるで恋人たちの会話は初めから成立してすらおらず、沙良は別の他人に話しかけ、遼は彼女の背中に向かって語りかけているかのようにも見える。すでに物語の前半の時点にて、二人のあいだに何らかの齟齬が生じている様を感じさせる意味深なショットだ。

この映画は、二組のカップルがささやかな行き違いから相手を見失っていく様を、熱海という観光地が時代とともに色褪せていく姿と重ね合わせて描き出してく。日常から抜け出していったはずが、二人の他愛もない会話を引き金に、再び現実のいざこざが表面に浮上する。ここに映し出されているのは、我々が想像するヴァカンスとしての観光とは異なる出来事だ。監督の言葉を引用して説けば「観光とは光を見ることによって自分の周り、現実を霞ませること」という定義付けができるだろう。

物語の後半、沙良は別の男とふたりで古い劇場に立ち寄る。沙良は一心に映写機から映し出される光を見つめ、やがてスクリーンを覆うほどにその輝きが強調される。その逆に花火の夜に沙良と遼が歩く場面では、行く道を照らす携帯の光は弱々しく、逆に周囲の影の部分が色濃く強調されている。この光と影の二つの対比は(映画がいまだ現実を忘れさせるほどのロマンスを持ち合わせているのであれば)光によって照らされない影が、彼らが向き合わなければならない現実の問題がそこに隠ているという象徴的な意味合いを浮き彫りにさせているというふうにも見えるだろう。昼間の光とは対照的に、終盤において暗闇のシーンが映し出されるのは、観光の終わり、現実への回帰を予感させるものとして映る。


主に新作映画についてのレビューを書いています。